COLUMN

2014.05.15澤田 美奈子

スメルズ・ライク・アニマルスピリット


飛行機から降り立ち、海外にやって来たのだという現実を、いちばん最初に脳に伝えてくる感覚は「嗅覚」ではないだろうか。連休中に出掛けた台湾では、漢方薬のような独特の匂いに迎えられた。私見、ならぬ私「嗅」だが、アメリカは新品のドル紙幣、ロンドンは香水のような、ハワイや東南アジアは南国の花やフルーツのような甘い匂いが感じられる。
 
メガネやウェアラブルなスマートグラスは「視覚」を、補聴器や人工内耳は「聴覚」を、補完、ないし強化(エンハンス)する。最近では微細な凹凸を捉えるための「触覚」増強デバイスなるものも研究開発されているらしい。こういった他の感覚機能への関心の高さと比べると、「嗅覚」はやや影の薄い存在なのだろうか。
しかし風邪や花粉症に見舞われている時はどんな好物もおいしく感じられないように、人間にとって嗅覚が働かないということは、少なくとも原始社会においては文字通り致命的な危機であったはずだ。匂いのシグナルを受容できなければ、腐ったものや毒物を食べて命すら落としかねないのだ。
 
とはいえ今のところ、嗅覚を平均的能力以上にエンハンスするといったアイデアはあまり聞かない。だが仮にもし嗅覚を増強する技術があれば、ソムリエやバリスタといった微妙な香りの差の嗅ぎ分けや敏感さが求められる人々にとっては価値があるかもしれない。あるいは人間がもしイヌやハエ並みの嗅覚を持てれば、何(誰)がどこにある(いる)かがわかるとか、人間の微量の発汗を感知してウソを見抜くといった、捜査官のような仕事で活躍できるかもしれない。しかしやはり現実的に考えると、雑音を拾いすぎる補聴器が使いづらいように、嗅覚を増強したところで、この世に溢れる雑多なたくさんの匂いによって、かえって人々を混乱させられるだけかもしれない。
 
さて、嗅覚のエンハンスよりも私が惹かれるアイデアは、「匂いの記録・保存・再現」ができないだろうかということである。私たちは旅に出ると、写真や動画、土産の購入、人によっては日記などで、経験情報を記録しようとする。味覚情報も、現地の味を再現するレシピやレストランなどで、ある程度の対応はできる。しかしどうしても嗅覚情報は記録できない。
旅から戻り、台北の市場の写真を見ながら、屋台から漂う鉄板料理の匂い、黒胡椒や香辛料、加工前の生の豚肉や牛肉、人々の熱気、湿気、そのほか正体不明・出所不明の香りが渾然一体となった、あの匂いをいくら懐かしく思い出そうとしても、写真も動画も匂いを持たない。匂いの記憶が薄れるとともに、写真や動画といった視覚的・聴覚的記録はどこかよそよそしいような客観的対象となり、「本当に自分はその場所にいた」という主観的なリアリティは萎んでくる。逆に言えば、もしあの市場の匂いさえ嗅げば、写真や動画などなくても、私は台北の市場にいた記憶を生々しい臨場感と高揚感と共に思い出すことができるように思う。
 
匂いは、記憶とダイレクトに結びついていると言う。そもそも人間の感覚情報の8割は「視覚」情報であり、「嗅覚」は人間の感覚が捉える情報のわずかな部分に過ぎない。そのくせ、匂いは人間を高揚させたりリラックスさせたり不快にさせたりとかなり支配的に人間の行動や情動を刺激する。匂いが人間にこうも影響力を与えるのは、嗅覚が大脳辺縁系(※脳の中でもかなり古くから存在し、人間の本能的な情動や行動に影響をつかさどる部分)と直結していることが関係しているらしい。つまり人間の中に残っているかなりアニマルな部分が、嗅覚経由で発動するのである。「匂い」という情報を操作することで、人の身も心も動かすことができるという可能性は、面白い。
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