COLUMN

2015.07.01澤田 美奈子

人はもはや考える葦ではないのか

  いま再び人工知能研究が熱い。「ビッグデータ」と、ビッグデータから自らパターンやルールを見つけ出す「ディープラーニング(深層学習)」の機能を武器に、人工知能は自動車を運転したり、広告を出したり、棋士と闘ったり、裁判文書を作成したり、遺伝子を解析したりしている。
 
これまで機械は、大量の情報蓄積や迅速な計算、同じ作業の繰り返しには強いとされていたが、芸術や創造性に関わる分野、社会の一般常識は扱えないとされていた。ところが、近年の目覚ましいコンピューティングパワーの向上によって、人工知能は確実に "人間の手に残されていた"かのように見えた領域に迫ってきている。
 
アメリカの新聞社ではすでにスポーツの試合結果や企業の決算の記事は人工知能が書いていると聞くが、はこだて未来大学でも、星新一の「新作」ショートショートを人工知能に書かせるプロジェクトが進行している。工場生産ロボットとして使われているBaxterは、最近料理番組を見て調理を独学しているという。
私が先日YouTubeを見ていたら、その動画のBGMのピアノ曲もまたEmily Howellという名の作曲コンピュータがつくったものであった。心を打つ旋律、という程のものではなかったが、それは別に機械がつくったからという理由ではなく、単純に好みの問題だろう。人間がつくった作品でも、自分の感性に響かない作品はたくさんあるのだから。
見る者の心を動かせばそれはもう立派な芸術だ、とダヴィンチは言った。自分でもよくわからっていない、己の感性のツボや琴線のありかを、人工知能の深層学習で探り当てられたあかつきには、機械の生み出した音楽や詩、絵画、彫刻...に心を揺さぶられることも十分ありうるだろう。
 
このような現状をかえりみると、「人間は考える葦である」という例の言葉で守られてきた"思考する存在としての人間の尊厳"はグラグラと揺らいでくる。
機械がすでにこれだけパフォーマンスを向上させる中で、機械の「思考」は「思考」ではないなどと、何を根拠に言えるのか?
私たちは、日々、本当に「考えて」いるのだろうか?
人間は機械よりも賢く・柔軟に・創造的に考えられるのだと胸を張って言えるのか?
人間は情があるから、とは言うが、感情や情動の源泉は生物的本能のプログラムだとすると、実は機械とそう変わりはないのではなかろうか?
 
そんな疑問をめぐらせつつ、もう一度パスカルの言葉に戻ってみると、今まで私たちは「考える」という部分に重きを置いていたが、もしかしたら「葦である」という点こそが、人間性の礎として重要な部分だったのではないか、という仮説が浮かんでくる。
一本の葦は弱弱しく、雨風や嵐に簡単に翻弄されるが、決してポキッと折れることはなく、嵐が過ぎ去ればたちまち元の姿に戻るようなしなやかな強さがある。一本生えているだけではひょろひょろして心もとないが、たいていの葦は集合して広大な草原をつくる。細くて案外丈夫で柔らかくて軽いので、屋根やすだれなどいろいろな用途への加工にも向いている。
  「考える」ことがもはや人間だけの十八番ではない現在、「葦」というメタファーで捉えられた人間の意味を考えてみることが大事なのかもしれない。
 
" 機械は考える箱である。人間は考える葦である。"
 
たとえばこんな風に言葉を足してみて、「葦」が考えることと「箱」が考えることの違いやその目的や意味を問うてみるのはどうか。 
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