COLUMN

2019.05.01中間 真一

ご馳走とデータ

~シンギュラリティ後の人間らしさ~

たまに、ご馳走をいただく機会があると、とても幸せな気持ちになる。先日、昼食をいただいた割烹でも、土鍋で炊きあげたご飯一粒から、旬のお菜の数々、香の物まで、どれひとつ手間を抜くことなく心が込められた、美味しいご馳走ばかりだった。店を一人で切り盛りする若い大将に見送られ、晴れ晴れした気持ちで店を出た。

 歩きながら、ふと思った。「ご馳走」という言葉が、最近は使われなくなっているんじゃないかと。確かに、今もほとんどの日本人は「ごちそうさま」と、食後の挨拶は忘れていない。しかし、私の子ども時代の昭和三十年代、四十年代には、「今日は、ご馳走だね」というような、いつもとは違う食事を指す言葉としても使われていたことを思い出す。

 というわけで、再度「馳走」という言葉を調べてみると「駆け走ること。あれこれ走り回って世話をすること。(その用意に奔走する意から)ふるまい、もてなし。立派な料理、おいしい食べ物」(広辞苑)とあった。そうだ、手間ひまかけて奔走して供される美味しい食事なのだ。同時に、「ご馳走」という言葉が消えてしまった理由が、Before/Afterの比較から三つ浮かんだ。
①食事におけるハレとケの境目があいまいでわからなくなってしまった。
②料理に手間ひまをかけてもてなすことが価値ではなくなってしまった。
③おいしさを、客観的・具体的に評価しなくてはならなくなってしまった。
これらを見ると、「メリハリレス社会」、「省力コスパ優先社会」、「データ立脚型社会」という社会変化の結果だということに気がつく。

 ところで、最近のTV番組にはグルメ番組や食レポ番組がやたらに目立つ。その中で、およそ舌が肥えているとは思えないタレント達が、やれ「ジューシーだ」、「旨味成分が」、「濃厚な風味だ」などと、わかったような決まり文句を羅列するのにうんざりする。芸人や役者なら、表情だけで視聴者に味を伝えられる演技力を見せてくれと言いたくなる。と共に、さっきの決まり文句の羅列は、言い換えれば「水分量」、「成分」、「濃度」など、定量データとしての表現だということにも気づく。

 コンピュータテクノロジーの飛躍的進歩によって、データ化さえできれば、あとは機械任せにした方がよい時代がやってきた。ビッグデータとAIは、ますますその力を大きなものにして”シンギュラリティ”を迎えることは間違いない。今は、その過渡期ゆえに、「いや、人間でないとできないことがある」とか「人の仕事の半分は奪われてしまう」とか騒ぎになっている。確かに「人間ならでは」のことはいくらでもある。しかし、機械に任せた方がいいことが圧倒的に多いことは否定し難い。たとえば「医療」だ。「やはり、目の前のお医者さんに聴診器をあててもらい、問診してもらってこそ安心できる」という保守派もまだまだ目立つ。しかし、そもそも医療とは過去の経験知で成り立つ術である。だから、一人の経験と記憶による知見よりも、瞬時に膨大な規模のデータにアクセスして診断する方が、少なくとも正確度は高いことは言うまでもない。あと10年もすると、病気の診断は「変なホテル」のようにロボットが相手をするようになっているのではあるまいか。その時、私たちは決してそれを「変なクリニック」ではなく、「スマート・クリニック」などと呼んでいるだろう。

 ご馳走の話しに戻ろう。ご馳走は、過去の経験科学から生まれるものとは違う。そう言うと反論があるだろう。「その人が、これまでにご馳走だと感じた料理のデータ蓄積から分析したレシピで、フードプリンティングすればいい」というように。それに対して「いや、料理の楽しさは味だけじゃない」と言うと、すかさず「食事を共にした人や表情、その場の盛り上がり度合いのデータがあれば大丈夫」とか、保守派と革新派、人間派と技術派の間にありがちな実に不毛なやりとりが延々と続くだろう。

 もし、ご馳走がビッグデータとAIで分析可能となると、10年後の私たちの食後の満足はどうなるだろう。こんなレポートメッセージが出てくるのかもしれない。
《あなたの食事偏差値》
今の食事に対するあなたの満足度偏差値は以下のとおりです。
・直近6ヶ月のあなたの食事の中での今回の食事満足偏差値:69
・過去1年間の日本人の食事体験における今回の満足偏差値:75
・全世界の過去3年間の食事体験における今回の満足偏差値:60
日本人としては、かなり満足度の高い今回の食事でしたが、世界的には満足レベルはやや高い程度に留まります。次回は、より旨味と場の盛り上がりレベルの高い食事をお薦めします。
《リコメンドメニュー》目標偏差値73
どこで:ぐる民食堂 ★★★★ 4.3
誰と:平成令和さん、Mihaly Csikszentmihalyiさん

 なんだか、こんなデータドリブンなオートマティックな生き方が、すぐそこまでやってきている。便利で最適なマッチングがオートマティックに得られる社会。しかし、その中で人間は弱体化して機械システムの家畜化し始めていることを忘れてはならない。だからこそ今、人間に必要かつ不足している力は「野性」から立ち上る「感性」なのだ。そして、そんな人間が渇望しているのは「手間ひま」のありがたさ、すなわち「ご馳走」ではなかろうか。

 先日ふらっと立ち寄った甘味屋の粟ぜんざいも、いつもどおり変わりなく美味この上ないご馳走だった。ごちそうさま。ちょうど今日から令和の時代がはじまる。令和天皇は私と同学年、この時代にパラダイム・シフトが完了して、平和の上に幸せを積み上げられることを願ってやまない。
令和元年五月一日 中間真一
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