COLUMN

2007.01.01中間 真一

「これまで」と「これから」の結節点~お正月は、跳躍台 ~

新年明けまして
おめでとうございます。
今年もよろしく
お願いいたします。

 新たな年を迎えました。いつもと同じ時の流れの中なのに、大晦日から元旦への一刻は、まだまだ多くの人に意味を感じさせるポイントです。師走に入った頃から慌ただしくなり、忘年会をして、仕事納めをして、大掃除をして、おせち料理の準備をして、鏡餅を供え、松飾りを立て、年越そばをいただき、除夜の鐘を聞き、新年を迎えます。時間の上にも、空間の上にも、ふるまいの上にも特別なポイントとなる「結界」を置き、今までとは何かが違うはずの向こう側へ跳ぶ準備を整えるわけですね。

 しかし、このような時空間の節目づくりは、一方ではムダ扱いされて排除されつつあるのも現実です。私も先日、新年の結界づくりの道具である松の枝一対千円、注連飾り一個三百円、しめて千六百円を駅前で地元の植木屋さんから買い求め、その価値は何なのか少し考えてしまいました。駅から自宅までの一軒一軒の玄関や門柱を横目で見ながら帰ってみると、自宅に何らかの結界を設けている世帯は7割程度でした。やはり少しずつ減ってきているのでしょうか。そうでもないのでしょうか。子どもの頃は、お店や会社の前には、どでかい門松が飾られていた記憶がありますが、最近ではめったに見ることはできません。お店も元旦早々営業するところが年々多くなるし、ATMも休まない。シームレス化です。社会の「のっぺらぼう化」です。

 確かに、形だけの儀礼となった結界イベントはムダでしょう。しかし、自分への意味を感じられるものならば、とても大切なのではないかと感じます。ますます忙しくなり、シームレスな競争の場に巻き込まれるばかりの弱き人間だからこそ、そして、希望と夢を持ってこそ生き抜ける人間だからこそ、節目をつくるしくみや装置を大事にしたいと思います。それは、自分が走ってきた「これまで」に対して、「これから」という希望への可能性を獲得するための跳躍台(スプリング・ボード)だからです。一年間というほどよい長さの時間の節を利用し、自分自身に都合良く、忘れたいこれまで、忘れた方がよいこれまでを拭い落とし、望みたいこれから、望ましいこれからという跳び箱の向こう側の時空間に向けての踏切板というわけです。

 もしかすると、「これまで」と「これから」を結ぶ結節点のしくみは、怠け者で弱い生来の人間が、自分に都合良く生き抜いていくための生きる知恵として生み出した文化ではないかと考えたりしてしまいます。年賀状というしくみも、みんなが一斉に結節点に集まって交信しようというわけですから、意外な新しい結び目を得ることができたり、おもしろい展開のきっかけが生まれたりということになります。ネットの世界のSNS流行の根底にも通じているような気がします。

 これから変化の時代は当分続きそうです。その中で、ますます自立が求められ、自律が必要となることは間違いないでしょう。だからこそ、他者からの支援がありがたく、人々との連帯の心強さも増すと思います。正月は誰にも訪れる年に一度の「これまで」と「これから」の結界イベントですが、それだけでなく、人それぞれに自分に都合よく人生の結節点をつくって、マイペースで気ままに走ったり、仲間と集まっては次へとジャンプしたりして、おもしろく生きていく、そんな跳躍台をつくりながら生きていける社会を夢見て、お正月のコラムといたします。今年もよろしくお願いします。
(中間 真一)
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