COLUMN

2007.05.01中間 真一

安心と安全~科学や技術を「わかる」ということ~

 早いもので、もう五月。新年を迎え、節目を越えて新たな道に進んできた。冬を越え、芽吹き、一気に眩いばかりの黄緑の葉を吹き出した。グングン前向きに進んで五月にたどり着き、ゴールデンウィークでホッと一息ついた新入社員や新入生たちを襲うのが「五月病」というシンドローム。一歩先への不安や無気力感にさいなまれる人々が連休明けに現れ出すというわけだ。

 そんなGWの連休中、最近目にしたり耳にしたりすることが多くなってきた「安心」と「安全」ということをふと考えた。ところで、この二つの言葉だが、「安心安全」と四字熟語で使われていることも、「安心・安全」と区分けしてつながっていることもある。自分自身どういう使い分けをしているかと思い返した。

 まず「安全」だが、「怪我をしない」「身体に損傷や不調を来さない」「生命を侵されない」「危害が加わらない」など、肉体的、物質的な危険が無い状態に使っているような気がする。だから、「安全だ」と言えることは、「科学的根拠」に基づいていて、「客観的な事実」でなくてはならないように感じる。

 一方の「安心」はどうだろう?安全が危険の反対であったのに対し、「心配」や「不安」と裏腹な関係にあるのが「安心」だ。だから、「気に病むことが無い」のだし、「安らぐ」心持ちを指して使っている。つまり、「安心だ」と言えることは、「個人的感情」に基づいていて、「主観的な感覚」である。

 その「安全」と「安心」をつなげて使うということは、「心も身体も安らか」ということになる。正しいかどうかは別として、なるほどそういうものかと納得したりしてしまった。つまり、「安全」を獲得するためには、かなりハードウェア的アプローチが必要だし、「安心」にはソフトウェア的アプローチが必要。というわけで、それぞれの入口段階のアプローチは、かなり違ったものになるはず。それをつなげていくのがシステム的アプローチということになるだろうか。

 「食べ物」の話にして、少し具体的に考えてみよう。食べ物の安全関係では、狂牛病のBSEや鳥インフルエンザの話題が最近あった。牛丼が消え去ったり、当選直後の宮崎県知事は自らテレビでおいしそうに鶏肉を食べて安全を訴えたりしていた。それでは、牛丼も焼き鳥も、まったく「安心安全」な食べ物に回復を果たしたのだろうか?遺伝子組み換え作物や抗インフルエンザウイルス剤のタミフルなども同様だろう。この手の「安心安全」問題は、いつも「時間が解決する問題」、つまり風化を待つしかない問題のような気がしてならない。

 「安全」はあり得るのか?どうしたら誰もに「安心」を与えられるのか?このあたりに入口のある問題なのだろう。「安全」が科学的客観性に基づく必要があるのなら、100%安全という保証はあり得ないはずだ。いま現在、科学が明らかにしたことだけが拠り所なのだから、未来への安全も保証しきれない。そうなると、「安心」も得にくくなる。たまたま自分が食べた肉が、よりにもよってBSE感染牛かもしれないと思うと、どんなに楽天的な人であっても100%安心とはなり得ない。それでは、忍たま乱太郎のごとく100%勇気!で克服するしかないのか?それもあり得ない。

 私は、「安心・安全」ではなく、「安心安全」でつなげて、この問題の解決を考えるべきではないかと思っている。また、100%安全も100%安心もあり得ないからと言って、危険と不安にまみれて前に進むことをあきらめた世の中ではありたくない。それを打開するには、「わかる」とか「なじむ」ことが必要ではなかろうか。科学や技術の話は難しい。しかし、それを正しくわかる(正しく理解して自分なりに腑に落とす)ことなくして安心安全はあり得ない世の中レベルになってしまっている。そうならば、世の中は、もっともっと「科学や技術がわかる普通の人」を育てなくて明るくならない。安らがない。

 サイエンス・コミュニケーションやら、サイエンス・カフェという取り組みが、あちらこちらで始まりだした。科学や技術を専門家だけのものに閉じこめておくのでなく、普通の暮らしの中の人たちとやりとりしながら開いていこうとするものだ。大学、科学館や博物館だけでなく、街中でも産声をあげ始めている。なじめる科学、わかる科学に向かっていく試みだ。アッと驚くワンダー科学も捨てがたいが、「安らいで生きるための科学」を、普通の人も、科学の先端にいる人も、もっと、もっと、くっつけていこう。
(中間 真一)
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