COLUMN

2007.12.01鷲尾 梓

「地元のおじさん」の顔-地域コミュニティーの希薄化を食い止めるもの-

 マンションに住んで1年半。住人は皆、すれ違えば気持ちよく挨拶を交わすが、それ以上の関わり合いはない。でも、管理人さんは別だ。入居の時には荷物の運び入れに手を貸してもらい、友人に車を貸したときには、車泥棒と間違えて裸足で追いかけてくれたこともあった。近隣に他に知り合いのいない私たちにとって、管理人さんの存在はとてもあたたかく、心強い存在だ。

 「ここから引っ越していくとき、会えなくなって寂しいと思うのはマンションの管理人さんぐらいだね」と話しながら、そのことを寂しいと思う一方で、会えなくなって寂しいような管理人さんに出会えたことをありがたい、とも思う。そんなことを話していると、ある新聞記事が目に入った。

 「頼れる『おじさん』 地域の子育てに一役」と題して、「子育てタクシードライバー」の活躍を紹介する記事(日経新聞:11月8日)。共働きの両親の代わりに、学童保育から自宅へ子どもを送り届けるなどのサービスを行っている。走行距離に応じた運賃を受け取る点では、他のタクシーと同じ。ただ、「遥香ちゃん、迎えに来たでぇ」と子どもに声をかけ、親の帰りが遅いときは一緒に帰宅を待つこともあるというエピソードには、「タクシーの運転手さん」というより、「頼れる『おじさん』」という言葉がしっくりくる。

 「おじさん」と並んで、「おばさん」の活躍も紹介されている。依頼者の自宅などで保育を行うNPO法人の活動だ。メンバーの平均年齢は50代、自分の子育てが一段落した「先輩ママ」の存在が、若い母親の子育てを支えているという。以前HRIで実施した子育て中の女性へのインタビューでは、このような「先輩ママ」からしつけの考え方を教わり、悩みを解決できたという話もあった。記事は、「地元のおじさんやおばさんの力が地域コミュニティーの希薄化を食い止めようとしている」と結ばれていた。

地域のつながりの希薄化が心配される背景には、「地元のおじさん」でもある「マンションの管理人さん」や「タクシーの運転手さん」の、「地元のおじさん」の顔の部分が見えにくくなってきたことがあるのかもしれない。

「仕事」と「生活」が切り離され、「サービスを提供する立場」と「消費する立場」が分断されて、サービスを提供し、提供される関係も人間関係の一部であり、つながりのひとつの形であるということが忘れられてきたようにも思える。「日本人は、お店の人はとても丁寧なのに、お客さんは偉そうにしている。挨拶も、お店の人がするだけで、お客さんが返そうとしないのは不思議だ」-海外から訪れた友人が訝しがっていたことを思い出す。

失われてきたつながりを取り返すのは特別なことからではなく、目の前の仕事を通して、目の前の相手との関わりから-そんな、当たり前だが大切なことを気づかせてもらった。(鷲尾梓)
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