COLUMN

2010.03.01中野 善浩

シリーズテーマ「学び」#5違和感、それは学びの糸口

 前回コラムのテーマは、自然。季節はいよいよ春、フレッシュな季節へと向かう。自然と春、そしてシリーズ・テーマである「学び」。若き頃の忘れられない思い出のひとつに、心理学者アブラハム・マズローの欲求5段階説がある。意外と知られていないが、彼も自然について言及している。

 マズローの欲求5段階説に初めて接したのは、大学を卒業した就職直後、たしか4月の新人研修である。人間のもっとも基本的な欲求は「生理的欲求(睡眠、食事など)」であり、それが満たされると、人の欲求はより上位の「安全欲求」に向かってゆく。下位の欲求が満たされてゆくにつれ、より上位の「所属の欲求」、「社会的承認の欲求(他者から認められること)」、「自己実現の欲求(自分の目標を実現すること)」を人は求めるようになる。
 フレッシュな新入社員として、とりあえず素直に聞く。しかし正直なところ違和感があった。営業前線である支店に配属され、約6ヶ月の販売実習を控える身には、「自己実現というゴールをめざして、頑張って売上をあげろ」という成果主義に聞こえてしまう。自己中心的で、いかにもアメリカ的な成功哲学だなぁ......と感じていた。しかし、それは浅学ゆえの理解不足だったのである。

 もちろんマズローは「自己実現の欲求」の重要さを指摘していたわけであるが、その先も視野に入れていた。自己実現した人がさらに成長してゆくと、どうなるか。研究を重ねた結果、彼が導き出した仮説は、人は「自己超越」に至る、ということである。自己実現をした人々の多くは、不運をこぼすことなく、人生を邪気なく楽しむ態度を身につけており、しばしば至高体験をしていたという。世界や人類を深く慈しみ、自然や他者に対する受容的態度も持っていたそうだ。
 「自己超越への欲求」。それは大きな世界のなかで、周囲の人たちや自然に支えられて生かされていることを実感、感謝することである。過去から未来へとつながる生命の循環のなかで生きている感覚。いわばスピリチュアリティ。自己実現がゴールではなく、自己超越のためのステップであるなら、決して自己中心的ではないし、成果主義的な発想ではない。

 自己実現を果した後に、自己超越へ向かう。大きな自然へ感謝し、エゴが小さくなってゆくわけだから、環境問題においても望ましい方向が出てくる。近年は、いわゆる癒しやスピリチュアリティへの関心が高まり、それらを安易に求める傾向も見受けられるし、怪しげな雰囲気を漂わす人も少なくない。ところがマズローの欲求段階説では、一定の自己努力を経た後に、超越的な高みにたどりつくことになる。とてもバランスのとれた考え方だと思う。
 マズローに関する書籍を改めて読み、欲求段階説を得心できたのは、それほど昔のことではない。ずいぶん長期にわたり、学ぶ機会を失っていた。

 まもなく年度が替わる。新しい世界へと旅立ち、マズローの欲求5段階説についてレクチャーを受け、僕と同じように違和感を覚える人もいるはずである。そこには学びの機会があり、流される可能性もある。有名な学説であっても、時代が変われば、修正が加えられ、進化するもことある。ただ鵜呑みにすることは望ましいことではない。
 違和感は学びの糸口である。僕が最初に勤めた会社もそうであったように、アカデミックな知見を都合よく解釈し、利用する人は少なくない。大人たちにおもねることは、学習機会を失うことにもなる。

 次回コラム担当の澤田さん。年長者の親父ギャグには馬耳東風。おもねない彼女は、きっと多くの学びの糸口を持っているだろう。
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