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学びの未来

【てら子屋コラム】「こしらえる」文化のルネッサンス
~かなり、ファブラボがおもしろい!~

HRI 中間 真一
2013.09.01

以前から気になっていた言葉のひとつに「こしらえる」という言葉があります。今では、たいてい「作る」で済ませている表現でしょう。しかし、かつての読み物の中には、けっこう登場していたと思います。寺田寅彦や宮沢賢治の作品名や文章の中にも多様されていたように思います。
 私たちが幼い頃の祖父母が日常の会話の中で使っていた言葉の中にも、まだまだ普通に生きていたように思います。「おやつでもこさえようかねえ」などと。ということは、「こしらえる」という言葉は、1960年代あたりから消えていったのかもしれません。読者のみなさんの記憶の中で、「こしらえる」という言葉は、いつまで生きていたでしょう?その言葉から想起されるものはどんなイメージでしょう?

 まあ、気になったからには電子辞書の広辞苑にキーインしてみました。大きな二つ目の意味として、3つの意味が記されていました。 ①つくり上げる。建造する。製造する。
②事に当る十分な体勢を整える。よそおう。身支度する。扮装・化粧をする。
③食べられるように仕上げる。調理する。また、細工する。
平家物語の中に見られた言葉の意味のようです。
私の記憶と重ねながら思うのは、「気持ちをこめて、手をかけてつくり上げる」という意味でした。
 そうなると、日本の工業化の勢いが絶頂期にあった60年代、70年代に姿を消していった言葉として納得できる感じもしてきます。つまり、モノをつくるのに、手をかけ、気持ちをこめて作りこむという時代から、効率的に一定の品質の製品を大量につくるという時代に一気に変わって行った時代というわけです。「こしらえる」という感覚は、工芸品には残ったものの、工業製品には感じられないものとなっていったのではないでしょうか。工業社会の到来で消えていった言葉だったのかもしれません。

 しかし、「こしらえる」という言葉が復活するのではないかという兆しを、私は感じています。その一つが「FabLab(ファブラボ)」というデジタル・ファブリケーションのムーブメントです。ファブラボの発端は、MITメディアラボのアウトリーチ活動であり、「ほぼあらゆるもの("almost anything")」をつくることを目標として、3Dプリンタやカッティングマシンなど多様な工作機械を備えた、「まちの図工室」というようなものです。既に、世界中に設立されており、市民誰もが自分(たち)がほしいものを、自分(たち)でつくるための場なのです。デジタル化によって可能になった未来のものづくり像でもあると私はとらえています。

 先日、「世界ファブラボ会議」という、全世界からファブラボ推進代表者が集まる会議が横浜で開催され、私も出かけてきました。日本でも、鎌倉や渋谷をはじめ、各地にファブラボがスタートし始めています。会場は、半分以上くらいは海外からの若い参加者たちのように感じられ、未来への兆しがバンバン感じられる場でした。
 もちろん、ファブラボという「まちの図工室」は、既存の大工場の生産を代替するものではありません。私の印象としては「図工室」です。小学生の頃、放課後に電動糸鋸や万力やヤスリを借りて、模型づくりをしていた頃を思い出す、「こしらえる」ものづくりを思い出させる場なのです。学びが、遊びと渾然一体となっていた、あの楽しさを思い出すのです。ファブラボという「こしらえる」文化のルネッサンス、当分目を離せません。

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