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【ゲッチョ先生コラム】カタツムリの歌
盛口 満

  朝の森に、キツツキのドラミングが響く。

 沖縄島北部、ヤンバルの森の固有種、ノグチゲラが木の幹をクチバシで叩く音だ。

 ウー、ウッ、ウーと、低い声で鳴くカラスバトの声も聞こえてくる。そうして森の音に耳をすませていたら、今度は、パタタ......という羽音のようなものが聞こえた。そちらに視線を向け、さらに近寄ってみる。するとオオシマゼミがコガタスズメバチに襲われて地上でもがいている姿が見えた。やがて日が登るにつれ、周囲の森からはオオシマゼミのカーン、カーンという金属的な鳴き声が響き渡るようになった。

 この日、いつになく森の音に耳をすませたのは、その少し前、僕がハワイに行っていたことと関係している。

 僕がハワイに行きたいと強く思うようになったのは、沖縄に住みつき、沖縄の学生に対して、沖縄の自然についてどう紹介しようかと考えるようになってからのことだ。当たり前と思っていることをうたがうことから、いろいろなことが見えてくる。しかし、当たり前のことは当たり前のことであるゆえに、その存在を疑い難い。例えば沖縄の人々にとって沖縄の自然は当たり前な存在であるがゆえに、その特異さや貴重さをつかみがたい。だから、沖縄の自然を相対化する視座が必要になる。そこで、ハワイに白羽の矢を当ててみた。相対化する視座の置き方もいろいろあるだろうが、沖縄同様、「南の島」であるハワイと比べることで、沖縄の自然が「見えてくる」のではないかと思ったのだ。

 海洋の真ん中に海底火山の噴火により出来上がったハワイの生物相は特異である。ユーラシア大陸からもアメリカ大陸からもそれぞれ数千キロ離れたハワイには、生物はなかなか渡ることができなかった。それゆえ、偶然、海を渡ってハワイにたどり着いた生き物たちは、特有の進化を遂げた。そんな生き物のひとつにカタツムリがある。実は、カタツムリはよく海を渡る。ハワイからは1000種近くの固有のカタツムリが知られている。さらに、そのカタツムリは、「歌う」とも言われてきた。

 カタツムリの「歌」について、1832年にハワイに生まれ、のちにハワイのカタツムリの研究に没頭するギュリックは、次のように書いている。「夏の昼下がりに、聞こえているのかはたまた夢をみているのかわからないようなやさしい音色の音がする」が、これが真夜中だと「より鮮明に響き渡り、天球の音楽のこだまのように大気を伝わってくる」-と。ギュリックは、ハワイの先住民たちは、この不思議な音色をカタツムリのささやきといっているが、確かにコオロギの声とは思えない......といったふうにコメントをつけている(つまりギュリック自身、カタツムリのたてる音とは確認できていない)。はたしてカタツムリが昼夜となく、そんな音を奏でるかはわからない。ただし、実際にかつてはその種類数も、個体数もハワイのカタツムリは群を抜いていた......。

 その一端に触れたいと思ってハワイ詣でをした。ところが、カタツムリ自体、ほとんど見ない。カタツムリを見ることができたとしても、移入種と思えるものばかり。ハワイのカタツムリの種類の90%がすでに絶滅したという話をいやいやながら、実感する。カタツムリが歌を歌うかどうかの真偽は、永遠に失われてしまった。しかし、そこまでたくさんのカタツムリが、まったく姿を見なくなるまで減少するとは、いったい、どのような自然改変が存在したのか。カタツムリに限らず、島の変化はあちこちで見てとれる。マウイ島のハナ・ハイウエイという「自然」あふれる道をゆく(多くの観光客でにぎわっていた。ただし、日本人はほとんどみなかったが)......が、そこに見たのは、帰化植物からなる森と、そこにすまう帰化動物たちであった。あまりに「不自然」な森の姿に、くらくらするほど。

 本を読むと、自然改変の強力な担い手は牛であったという。牛によって植生が破壊されたのち、森が復活しても、その森には帰化植物ばかりが姿を現した......と書かれている。海洋の只中に棲みついた植物たちは、外国からやってきた植物との競争に弱かったのだ。

 現在のハワイでカタツムリの歌に耳を澄ますすべはない。そこで、沖縄の森にでかけてみた。沖縄の中でも石灰岩地には、カタツムリが多産する。そうしたカタツムリの多産する森では、カタツムリの歌が聞こえてくることはないのだろうか。

 結果から言えば、聞こえてきたのは虫の音と鳥の声ばかりだった。しかし、聞こえてきた虫の音と鳥の声が、沖縄島にもともと棲みついていた者たちばかりであることをあらためて意識する。そのような音の聞こえる森を構成する木々の多くが(すべてではないが)、在来の植物であることも意識する。逆に言えばカタツムリの歌が聞こえるような島が、どれだけ稀有な島であったか(ハワイにはセミも分布していないため、セミの声にかそけき音がじゃまされることがない......など)ということにも、思いが至る。

 さまざまなことを見てとるには、ものごとを相対化する視座の有無があるように思う。

 先日、NPO珊瑚舎スコーレで開かれた「学校外の学びを応援する法律をつくろう全国キャラバン」の集いに参加した。

 不登校の子どもたち......つまりは「学校」に通わない、通えない子どもたちの学習権を保障しようという動きだ。ちなみに、珊瑚舎スコーレのようなフリースクールは法律上、「学校」ではないとされている。フリースクールで学ぶ子どもたちは、「学校外」で学んでいる子供たちなのだ。全国キャラバンの活動は、こうした「"学校"外で学んでいる子供たちの学習を認めよう」ということにある。フリースクールを学校外と規定したままでいいのかということの是非についてはここでは触れない。ただ、この集いの中で、スコーレの代表である星野さんはこのような活動が、「"学校"が相対化される機会になるといい」と評価した。本当にそうだ。

 学校とは何か。学校とはなんのためにあるのか。学校とはだれのためにあるのか。

 そうした根本的な問いを、「学校」外の場とされている場を手掛かりに、あらためて考えてみる姿勢が問われている。


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