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      <title>Terrakoya</title>
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      <description></description>
      <language>ja</language>
      <copyright>Copyright 2011</copyright>
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         <title>【コラム】 センス・オブ・ワンダーと大人の責任</title>
         <description>　何を見ているの？
食事中に手を止めて上を見上げている子どもの目線を追うと、天井に、コップの水にできた水紋が映っている。
こんなところに、、、。いつもそこにあったはずの美しい光の環に、初めて気づかされた。
　一歳を過ぎたばかりの子どもとの暮らしのなかには、そんなふうに、子どもの目線を追ってはっとさせられる瞬間がたくさんある。

　以前、レイチェル・カーソンの著した「センス・オブ・ワンダー」を読み、将来子どもをもったら、なるべく自然に触れる機会をつくり、いろいろな経験ができるようにして、センス・オブ・ワンダー（神秘さや不思議さに目を見はる感性）を育みたい、と考えていた。
　しかし実際に子どもとの暮らしが始まると、その考えは少し間違っていたような気がする。子どもは家の中のごく普通の暮らしの中で、日々神秘さや不思議さを発見しては感動している。そしてその姿を見ていると、私自身、とても神秘的な瞬間に立ち会っているようで、敬虔な気持ちになる。
　センス・オブ・ワンダーとは「特別などこか」の「特別な何か」を見せて「育む」というものではなく、子ども自身が生まれながらにしてもっているものであり、それを教わるのは大人の私たちのほうなのかもしれない、と思うようになった。

　一方、親としての私は、気がつけばその背中に「だめ」と声をかけてしまっている。
　お風呂の水を飲んではだめ。
　みかんの皮にはワックスがかかっているから、かじっちゃだめ。
　そしてあとから、そんな自分にがっかりする。

　先日は、子育てサークルのメンバー間で、来月予定されている「どんぐりひろい」を中止にするかどうかの議論があった。
　衛生面への不安、農薬などの薬物への不安に加えて、今年は、放射能という新たな不安が加わった。また、「だめ」と言わなければいけないことが増えてしまった。

　触ってはいけない、だめ、と制するうちに、子どもは触れることをあきらめ、自分の五感で確かめることをあきらめ、次第に、感じることをしなくなってしまう。生まれながらにしてもっていた、美しく鋭い感性が失われ、生きるだけ鈍感になっていく。

　だめといわなければならないことはある。でも、大人の都合でだめといわなければならないことを、できるだけ減らしていくのが大人の責任だ。子どもたちがセンス・オブ・ワンダーを豊かに膨らませていける世界であるために。</description>
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         <pubDate>Thu, 01 Dec 2011 00:00:00 +0900</pubDate>
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         <title>【コラム】ヒヤリハットの学びを活かすために</title>
         <description>　自転車による事故の増加が、さまざまなところで取り上げられている。そこには自転車の手軽さとは裏腹に、人が亡くなるといった看過できない重大な事故の発生に至るケースまでみられるためである。実際、事故の大半は、自転車走行上の交通ルールやマナーが守られていたならば未然に防げた、あるいは軽減されたに違いないからだ。

　ところで、自転車というと、誰しもが小さい頃、自由に乗りこなせるように少なからず練習に励んだ記憶があるのではないだろうか。補助輪付きの自転車から、それらを外した二輪の状態で自由に乗りこなすには、バランスの取り方などいくつかコツが必要になる。みずからの小さい頃を振り返ってみても、広くて安全なスペースがある河川敷などに出掛けて練習を重ねるうちに、いつしか感覚を掴み乗れるようになっていたように思う。

　ただ、自転車の乗り方をそのように習得する一方、走行のルールといったものは、どこか経験的に学んだ我流のものに限りなく近いことが多いのではないだろうか。「混雑したところを走行する場合、人や車に接触しがちだから注意が必要」、「夜道では無灯火の自転車があるため、周囲への注意は欠かせない」。個人的に積み重ねたヒヤリハット経験がある意味、いかにすれば安全面にケアできるかという学びの材料となって、ルールとして頭の中に刻まれる。そこでは自分本位の安全はあったとしても、周囲の安全というところまではなかなか目が行き届きにくくなりがちだ。

　しかし、実際には自転車は道路交通法上、車両の一種として扱われるとの明記がしっかりとなされている。つまり、自転車は歩道を歩く人の間を縫うように走ることはそもそも許されず、一部の走行可能な歩道を除いて、車道もしくは専用レーンの走行が定められている。また、夜間ともなると無灯火で走行することは禁じられているなど、それらの規則にしたがうことが求められている。明らかに、自身の経験が中心となったルール解釈では、抜け落ちや認識の違いが出てくることは至って当然である。ある種、多発する自転車事故は起こるべくして起こっているといえる。

　最近では、自転車は省エネが叫ばれる状況を追い風に、エネルギー面では効率が良く、環境にも優しい乗り物として注目が高まっている。電動自転車に至っては、販売量が国内でバイクと肩を並べる規模にまで伸びてきているというから、その勢いは十分に感じ取ることができる。
　モノは良くとも使い方が悪いと、本末転倒の自体に陥ってしまうということはよくある話である。自転車も例外ではなく、利用方法さえ間違わなければ多くのメリットが享受できるが、その大前提には決められた規則を守るということがあってこそである。そして、そこに経験から得たことをプラスできれば、潜在的な危険を回避できるという理想の形につながるはずである。こうした認識に今一度立ち戻ることは、個々のヒヤリハットからの学びがより有用な意味を持ち、安全に移動できる環境の実現へと導いてくれることになるであろう。</description>
         <link>http://www.hrnet.co.jp/terrakoya/column/117.html</link>
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         <pubDate>Tue, 01 Nov 2011 00:00:00 +0900</pubDate>
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         <title>【コラム】 Can you Do it Yourself?</title>
         <description><![CDATA[　部屋を片付けていたら、クローゼットの奥から手作りの洋服が出てきた。そういえば中高時代、自分で服を作ろうとしていた時代があった。思い通りの服がほしかった、でも店では売っていなかった、もしくはあっても高価で手が届かなかった、といったことがきっかけだったと思う。改めて見ると、デザインも縫製も外で着られるレベルではないのだが、自分なりに一生懸命作っていたことを思い出すと、処分もするのもためらわれる。

　学校には必ず、家庭科と技術の授業がある。手を動かして何かをつくる、というところでは、美術や図画工作の授業があるので、なぜそれとは別に技術家庭科があるのか当時は疑問だった。だが振り返ってみると、自己表現の機会や美的感覚の涵養のための美術や図画工作と、衣服や家具といった生活用品を自分の手でつくるプラグマティックな技術家庭科は、それぞれに役割が異なるのだろう。

　さて、手作りの洋服との久しぶりの邂逅を果たし、今、私が高校生だったらどうするだろう？、と考えた。今なら良いものを安く売っている小売店がたくさんある。まずはそこに出かけるだろう。店頭になかったら、ネットで探すという手がある。東京に住んでいなかったら、まず先にネットが来るかもしれない。自分でつくるという選択肢はたぶん、ずっと後に来るか、あるいはそんな選択肢自体存在しない可能性だってある。
　そう考えてみると、”買えば済む“が当たり前になった時代において、家庭科や技術の時間は、決してそれは当たり前ではないのだということを思い出させるための機会として、今後より大事な意味を帯びてくるように思える。


　自分の手でモノをつくる。これは海外ではDiYと呼ばれるカルチャーだ。DiYの対象としてまずイメージされるのは、いわゆる日曜大工で、ホームセンターで材料を買ってきて、自分の家仕様にあつらえた家具や、家の壊れた箇所の修理を行う、といった作業を思い浮かべる。
　ただもう少し深くDiYの歴史を紐解いてみると、DiYはモノだけでなく、文化の創造にも及んでいたことがわかる。たとえば音楽。イギリスにおけるDiY文化を紹介した本『DiY CULTURE－Party & Protest in Nineties Britain―』（George McKay, 1998）によると、70年代後半、商業化の波に飲まれ反骨精神を失いつつあったロックンロールに反旗を翻した若者たちがつくりあげたのが、パンクミュージックのそもそもの発祥らしい。彼らは音楽だけでなく、自分の音楽を売り出すためのレーベルや、音楽性にふさわしいファッションブランドをも“自作”した。シド・ヴィシャスやヴィヴィアン・ウエストウッドといった、今もなお若者から熱烈な支持を受ける時代のアイコンたちも、そのルーツには強力なDiY精神があったというわけだ。


　さて、話題を再び現在に戻すと、今再びDiYがオモシロい時代に突入している。以前も<a href="/terrakoya/column/097.html"> 当コラム</a>で取り上げたが、かつてから存在していた電子工作文化に情報技術が加わることで、さらに高度なモノづくりが可能になってきている。

<img alt="116.jpg" src="/terrakoya/column/images/116.jpg" width="320" height="240" align="right" hspace="10" /></a>　高性能の工作機械が比較的安価になってきたことも、ムーブメントに拍車をかける。右の写真は、業者に特注してつくったHRIの表札、というわけではなく、以前、慶応義塾大学大学院メディアデザイン研究科の工作室にお邪魔した際、学生さんに即興で製作してもらった見本品である。弊社ロゴをソフトウェアで認識し、コンピュータにつながったレーザーカッターが、厚みのあるプラスチックの板をプログラムに従ってくり抜いていく。ものの数分で、こちらの思い通りのカタチに見事に仕上げられた。こうしたオモシロい道具が身近にあれば、学生たちの創造力もかき立てられるというものだろう。

　実はこうした工作機械の導入によるDiY革命が、インドのような新興国でも起こりつつあるらしい。ガスも水道も舗装道路もない農村地帯の人々が、“個人的なモノづくり”運動を世界に展開しようとしているMITから提供されたパソコンや3Dプリンター等を使って、自転車を改造した発電機やWi-Fiアンテナ、太陽光発電による調理器具をつくっている、と言うのである。
　自分が心からほしいモノを、ほしいカタチで、自分の手で、ほしいときに、ほしいだけ、つくる。そんな、新しいけれども根源的なモノづくりのありかた、そしてそんなモノと作り手＝使い手の文化が広がっていけば、″買えば済む“社会の限界を迎えつつある先進諸国とはまた異なった様相の豊かさを、彼らは実現していくに違いない。]]></description>
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         <pubDate>Sat, 01 Oct 2011 00:00:00 +0900</pubDate>
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         <title>【コラム】人生のターミナル～未来への節目づくりと学び～</title>
         <description><![CDATA[<img alt="115.jpg" src="/terrakoya/column/images/115.jpg" width="320" height="240" align="right" hspace="10" /></a> 　ターミナルと言えば、やはり「駅」や「空港」を思い起こす。もともとの意味は「終点」だが、駅や空港でわかるとおり、同時に同じ場が「始点」にもなっているのがおもしろい。
　終わりの達成感や空疎感、そして安堵感と共に、始まりへの期待感や高揚感、不安感もターミナルという時空間の結節点には同居している。そして、鉄道路線や情報回線が線から網状の面に展開進化していく中で、ターミナルは、トランジション（変遷・転移）の繋ぎ目の意味が大きくなった。同じように、私たちの人生にも「死」という終着点だけでなく、生き方の変遷の節目となる時空間として、いくつかの大きなターミナルの存在が見えてくる。

　人生のターミナルを考えてみると、進学（卒業と入学）、就職（学び手と稼ぎ手）、成人（子どもと大人）、結婚（一人と二人）、出産（夫婦と親子）など社会的な制度と連動した、多くの人たちが同じように経ていく大きなターミナルと、極めて個人的な範囲で完結する小さいけれど強い自発ターミナルがある。

　大きなターミナルは「式」と呼ばれる通過儀礼が伴うことも多い。社会の押し出しプログラムの力を借りて、次の人生ステージに向かう決心と行動を促す仕掛けだ。しかし、最近の成人式などの様子からは、かつて元服式に見られたようなプログラム趣旨とはかけ離れた、単なるエンタテイメントと化している。
　この傾向は、「式」と名の付くイベント全般に見られるように感じる。世の中や個人の生き方の多様化やグローバル化、複雑化の中で、次第に「式」が「形」だけになり、形式化してしまったことが大きく影響していそうだ。

　私自身は、その社会に固有のローカルな「式」の価値を尊重して、より活かしていくべきと考えている。しかし、それだけでない個々人自らの意志で設ける自発的なターミナルづくりが、これからの成熟社会には大切な営みとなるように感じる。自律した生き方とは、このようなターミナルづくりによって成り立つと考えるからだ。
　ひとたび卒業したら学びは終わり、ひとたび就職したら仕事場は変えないなど、ひとたび選択したら、その後でのやり直しや付け足しは利かないという、誰もが同じ単線的一方通行人生を歩む時代とは異なっていくだろう。チャンスは自らつくるもの、いくらでも学び足しができるし、それによって新たな仕事に就ける、その循環によって生きる歓びを得られるというわけだ。

　こんなことを久しぶりに思い起こしたきっかけは、夏休みに観た映画「おじいさんと草原の学校」だ。84歳で小学校に入学したマルゲ爺さん、数年前のケニアでの実話である。彼にとって自由を得るということは「学ぶこと」だった。「文字を読みたい」その強くて純粋な気持ちが、教師の心を動かし、子どもたちの心を動かし、教育委員会を動かし、政府を動かした上に、映画で世界中の人々の心を動かす原動力となったのだ。この映画を観て、私は「人生のターミナル」とは「学び」の時空間なのだと確信できた。それは、エンタテイメントなんかではない。学びこそが、人生のターミナルから未来への推進力になるのだ。

　そしてもう一つ、まさにターミナルのエピソードもある。先日、出張の途中で旺盛な好奇心が騒ぎ、リニューアルして話題となっている大阪駅を暫し探訪してきた。ヨーロッパの鉄道ターミナルを思い起こさせるような、駅全体を天井高く覆う明るい大屋根、駅の南北をつなぐのは連絡橋というよりは、「時空の広場」という名のとおり広場である。その広場には金と銀の時計が据えられていた。私は暫しターミナルに集っては散っていく多くの人々の様子をショッピングビルの上の方から眺めていたが、そのシーンはまさに時空間そして人々の暮らしの結節点であった。本格的な学びから、小さな気づきのような学びまで、自発的なターミナルづくりによって学び続ける生き方を楽しみたいものだ。]]></description>
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         <pubDate>Thu, 01 Sep 2011 00:00:08 +0900</pubDate>
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         <title>【コラム】 薄暗がりから考えるこれからの暮らし</title>
         <description>　海外に旅行や出張で出掛けると、日本国内の環境がいかに恵まれているかということをあらためて実感する機会が少なくない。たとえば、宿泊先のホテルでシャワーを浴びようとすると、水温調整がしづらい、あるいは水の勢いが物足りない。また、移動をしようとするケースでは、分かりやすく親切な案内サインが周囲に見当たらないなど、さまざまな普段とは異なるシーンに遭遇する。

　そんなふうに記憶を辿っていると、以前ロンドンを訪れた際、街の中で感じた光景が思い浮かぶ。街の通りや駅のホームに降り立つと、そこはお世辞にも十分な灯りで満たされているとは言えず。また地下鉄に乗り込むと、車両がレールの交差ポイントを通るたびに電力供給が断たれ、室内の灯りは停電状態になる。「しばらく消えて、また点灯する」ということが、乗車していると幾度となく繰り返される。まさに英国の地下鉄と言えば、“暗い”といったイメージが頭の中に刷り込まれた。と同時に、「そのくらいなら技術的に解決できるはずなのに」と思ったものだ。実際、日本の地下鉄でも昔はそのような状況が見られたそうだが、今では補助電源装置が搭載されるなどにより解決されている。

　ところで、そんなことを思い出すきっかけについてよくよく考えてみると、震災に起因する電力不足に他ならない。震災以降、首都圏では駅のホームの明るさを抑える、また電車内の蛍光灯が間引かれるなど、電力消費をなるべく少なくする取り組みが続く。駅や電車に限らず、これまで街中をはじめあらゆる場所で煌々と光が放たれていたが、今はそうしたこれまでの日常が少し薄らいで目に映る感は否めない。そのような光景は、一瞬どこか海外で感じるような違和感につながる。

　すべては電力の必要量に対して、それに見合う供給量が確保できないという、単純なことであることは言うまでもない。
　そうした状況を何とか打開できないものかと、近頃は再生可能エネルギーの活用ということがよく取り沙汰されている。つい先日も、海の沖合いに巨大な風車を設置して、そこから電力を供給する、洋上風力発電の講演を聞く場があった。周知の事実として、日本の国土は海に囲まれていて、そのエリアから生み出される膨大なエネルギー賦存量を活かす発電について、もっと積極的に推進すべきだという提言である。この場合、風車は沖合いに設置する必要があるため技術やコストの面で課題がまだ少なくないが、欧州を中心に導入が進んでいるこのタイミングを逃す手はないという。

　話に耳を傾けながら、なぜ私たちは暮らしの身近なところからエネルギーを得ることにこれほど苦労するのか、ということを考えてしまった。そもそも人が多く暮らし、都市と呼ばれるものが形づくられる場所は、条件の一つとして強い風があまり吹かない地域である。したがって、近くで風力によるエネルギーを十分に得ることは容易ではない。また太陽光による場合も然りで、砂漠のような発電量の大きいところには、人々は積極的に住むことを好まない。
　こう考えていくと、人の暮らし、そしてとりわけ自然エネルギーということにおいては、どこかトレードオフの関係であることが、ある意味よくわかる。今の暮らしの発展は、我々の先人が住み良い場所に目星を付けて、そこで多くの都市群が築かれている。そうした都市という中で、私たちは既に多くの恩恵を受けていることは事実である。したがって、都市が人口過密などの諸問題を抱える中、これからも私たちがそこに留まり続けるのであれば、どういう暮らし方を選択していくか、現在のエネルギー問題で顕在化してきたように真摯に考えなければならないであろう。今まで海外で感じていたような、少し薄暗いぐらいの光景がしっくりくるような街のあり方、またそれにフィットするような暮らし方というものを、これを機に実現させていくというのもその答えの一つかもしれない。</description>
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         <pubDate>Mon, 01 Aug 2011 00:00:00 +0900</pubDate>
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         <title>【コラム】感じる物理学</title>
         <description><![CDATA[　サンフランシスコは博物館や美術館、科学館などのアカデミック施設も充実している。例えば2008年にリニューアルしたCalifornia Academy of Science（カリフォルニア科学アカデミー）は、屋上庭園の熱帯雨林、水族館、プラネタリウム、博物館が一同に集結しているという珍しさもあり家族連れや観光客で連日賑わっている（当博物館については<a href="/publication/pdf/terra11_7.pdf">「てら子屋vo.10」</a>でも紹介しています）。
　この緑いっぱいの施設も良かったのだが、今回は一見地味ではあるがじわじわと面白い<a href="http://www.exploratorium.edu/">Exploratorium(エクスプロラトリウム) </a>について報告したい。

　エクスプロラトリウムは湾岸地区、住宅地の一角にある。科学館と聞いて想像する近代的な建物ではなく、質素で倉庫のような外見だ。足を踏み入れると薄暗くはあるが天井が高く開放感があり、飛行機の格納庫と言うほうが近いかもしれない。そんなあやしい倉庫のような科学館が期待以上に面白く、とりわけ物理学の展示に魅了された。

　日本の教育の場合、数学ができないと必然物理にも進めない、という流れが出来上がってしまっている。私自身数学につまずいたときから物理も縁のない学問として遠ざけきた。にも関わらず、素養がない人間にとっても惹きつける何かが物理学にあるというのは、今回の発見だった。

<img alt="113_01.jpg" src="/terrakoya/column/images/113_01.jpg" width="240" height="180" align="right" hspace="10" /></a>　入場後すぐ足が止まったのが、Forever Falling Magnetという展示である。要は「磁石があって電流が流れると磁界が発生する」というベーシックな原理を紹介する展示なのだが、その見せ方にひねりがある。
　斜めに置かれたアクリル製の透明な円盤の中に丸い磁石が10個ほど入っている。見学者がその円盤を回すと、スススと中の磁石が円盤の隅を伝って転がるように上に上がってきて、そしてある程度上がるとストンと落ちる。それをひたすら繰り返す。回転盤の下の部分はアルミ板でできているので、磁石は何もない場合は自由に動ける。だが円盤を回すことで電流が発生するので、磁界が生じ、磁界の影響で磁石が円盤の淵を回転しながら上まで上がっていって、ある地点まで上がると重力が働くので落下する、というからくりである。
　まず単純に、磁石の動きが面白かった。急な傾斜をギリギリまでなんとか上るものの、それ以上は頑張れずにボトッと諦めたように落ちるという動きがコミカルだった。
　しかし見ているうちにふと「Forever」という言葉が気になってきた。Foreverなんてサラッと書いてあるが、永遠に続くなんて、そんなこと本当にあるんだろうか。未来永劫この磁石は上っては落ち、を続けるなんて、誰がなぜ断定できるんだ。といった哲学的な問いが円盤と共に頭の中をぐるぐると回り始めた。
　おそらくこの手の疑問を抱いてしまうのは、私が心理学や生物学といったナマモノを相手にする学問ばかりやってきたからだろう。つまり、いつも向き合う対象は“生き物”だった。だから磁石の動きを見ているうちにだんだんと磁石が生き物のような気がしてきて、よくもまぁ飽きもせず頑張れるものだなあ、いつか学習して諦めるんじゃないかなあ、などと考えてしまっていた。だが磁石はモノだから、意思も学習も疲労の蓄積もない。いくらそれが“生物っぽく”見えたとしても。支配する法則が働き続ける限り、モノの動きは永遠に続くということが言えるのである。それがモノの世界なのだ。

　<img alt="113_02.jpg" src="/terrakoya/column/images/113_02.jpg" width="240" height="180" align="left" hspace="10" /></a>　次に目に入ったのは、金属の太い棒の端におもりがブラブラ揺れる振り子である。振り子といえば物理ではおなじみのアイテムだが、説明板に「Chaotic Pendulum」と書いてあって思わず、エッと思った。カオスって！どう見ても、二つのおもりがブラブラ動いているだけだ。決して複雑な運動ではない。それでもパネルには「この動きを予測するのはとてもハードだ」と念押しのように書いてある。予測できないのは複数の物体が周期性のない動きをしているから、らしいが。そうであれば先ほどの磁石のほうがよほど妙な動きをしていた。こんなシンプルな動きのどこに“混沌”が起こっているのか、しばらく振り子を見つめ続けていてもどうにもわからなかった。
　先ほど磁石でも思ったことだが、生き物はモノではないように、モノは生き物ではない。生き物にはその振る舞いに何かしら意味があるので、そこから類推して動きの予測ができるが、モノはそうではない。だからこんな一見シンプルにみえる動きすら、人間にも、その人間がつくったスーパーコンピューターにも、予測がつかないんだろうか。それにしてもこれがカオスだと言うならこんな動きをするものなど身の回りにはたくさんある。世界はそんなにカオスだらけなのだろうか。むしろモノより人間のほうがずっと、パターン化しており、予想が容易く、単純な存在なんだろうか――。などと考えているうちに、モノだとか人間だとかいう定義自体が何だかグラグラと揺れてきてしまった。


　一通り見学して回った後、出入り口にあったパネルで、当館の設立者が物理学者のオッペンハイマー氏だということを知った。物理学の展示にとりわけ魅了されたのは偶然ではなかったのかもしれない。
　"The whole point of the Exploratorium is to make it possible for people to <strong>feel</strong> they can understand the world around them.”という氏の理念通り、自分の手で触って動かして感じられるしかけがふんだんにあるエクスプロラトリウムは「参加体験型ミュージアムの先駆け」として世界的にも広く紹介されている。だがどうもこのごろ“参加”や“体験”と銘打ったものがありふれすぎていて、それが表面的にしか流通していないのではないか、そもそもでは体験とは果たして何だろうということがひっかかっていた。
　今回ここを訪れて思ったのは、体験というのは、何だかわからないがこころの奥深くをザワザワとさせ、説明だけではすっきりせず、後々まで引きずり続け、繰り返し繰り返し考えてしまうような“何か”をもたらすものなのではないだろうかということだ。ある意味、その場限りで解決されずにまとわりついてくる厄介な代物でもある。

　あの展示以来、「永遠」とか「カオス」とか「モノとは、イキモノとは」といった疑問が燻っている。数学はやはり苦手なので自分なりに言葉で考えている。この思索は物理学からは程遠い営みかもしれないが、それはそれで良いのではないかとも思う。球技が苦手でも野球を観戦したり、絵は描けなくても美術館の絵を鑑賞したりすることを誰も咎めたりはしない。美しい景色や素晴らしい名画に触れたときにふるえる“感性”のチャンネルを通して、科学をたのしむという方法もあっても良いのではないだろうか。そんなことを教えてもらった科学館であった。

※使用した写真は当館のスタッフの了承を得た上で掲載しております。
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         <pubDate>Fri, 01 Jul 2011 00:00:00 +0900</pubDate>
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         <title>【コラム】幼稚園児の哲学授業？！～映画『ちいさな哲学者たち』の衝撃～</title>
         <description><![CDATA[<img alt="112.jpg" src="/terrakoya/column/images/112.jpg" width="248" height="349" align="right"/>　二十数名の可愛らしい子どもたちが集まり、輪になって座った。先生が尋ねる「自由って、どういうこと？」一人の子が答える「自由って、一人でいられること、呼吸をして、優しくなれることだと思う」、「自由って、監獄から出ること」、次々に、私にとって驚きの言葉が繰り出される。ここは、フランスのとある幼稚園の教室だ。集まっているのは、４～５歳の普通の園児たちなのだ。

　先日、マスコミ向けの試写会にて『ちいさな哲学者たち』という映画を観る機会を得た。フランスのある幼稚園で、園児向けの哲学の授業の様子を撮影したドキュメンタリー映画だと聞き、いろいろな意味で興味が湧いた。
　お洒落なカフェで哲学談義をする「哲学カフェ」、大学入学資格試験の必修科目に「哲学」があるお国柄、ついに幼稚園児から「哲学」と来たかい？４歳の子どもには、もっと他に「子どもらしい」やるべき大事なことがあるんじゃないの？と、正直なところ、映画を観る前はシニカルな気持ちの方が上回っていた。しかし、好奇心旺盛研究所の研究員としては、チャンスを逃すわけにはいかないのだ。

　そもそも、「こどものための哲学」という研究は、1960年代にコロンビア大学のマシュー・リップマン教授によってスタートしたものらしい。子どもが元々持っている「考える力」を、話し合いを通じてさらに高め、その後の認知力と学習力、さらに生きる知恵へとつなげていくことを狙いとするものらしい。
　映画は、この発想を原点に、フランスの（日本で言えば教育実験校のような）幼稚園で2007年から始められた哲学のアトリエの時間を、２年間カメラで追ってき記録なのだ。

　先生が園児たちに尋ねる「死ぬのは恐い？」子どもが答える「人が死ぬのは、楽しくないな」。「なぜ、楽しくない？」、「なぜって、一人になりたくないから。そうなったら迷子になっちゃうよ」、「魂ってなんだろう？」、「目に見えなくて、青いものだな」こんな、ごく一部の彼らのやりとりを抜き書きするだけでも、感じが伝わるのではなかろうか。およそ物知り顔の大人の常識からは想定できない、しかし、子どもたちの素直な心から発せられている「言葉」を感じることができるはずだ。

　「哲学って何？」という問いに、子どもたちは「考えること」、「話しをすること」、「意見を聞くこと」と次々に答えていた。これって、社会の中で市民として生きる、人間生活の基本ではないか！半世紀を生きてきた私が、今まで、「哲学って何？」という問いに対して、「生き方を考えること」なんてうそぶいていたことは、見事に４～５歳の子どもたちの答えから跳ね返されてしまったわけだ。そう、哲学は考えるだけではなく、言葉を押し出し、言葉を受け取り、そういう他者とのやりとりという試行錯誤を経て、言葉を再生産していく営みなのだろう。

　それにしても、私の中には不思議がいまだに残っている。「言葉」というのは、何らかの経験を通じて獲得され、使われるもののはず。それならば、人生経験豊かな人ほど、広く深い言葉の海の中から一つの言葉を選んですくい上げられるはずではないか。なぜ、生まれて４～５年足らず、まだまだ生きる経験の乏しい園児たちの口から、これほどまでに豊かに、純粋な、時に真実であるがゆえに残酷な言葉の数々が繰り出されるのだろうか？

　解説をしている学者のコメントの中に、「知識は個人の頭の中にあるものではなく、対話する者たちの交流を通して社会的に構成されるものだということがはっきりと実感される」という記述を見つけた。そのとおりかもしれない。しかし、対話するためには、個人の頭の中の知識が必要になるはずだ。

　この問題、まだまだ私は思考の途中だ。改めて、「子どもって何なの？」という問いに戻ってきてしまう。この映画に登場する子どもたちは、極めて優れた知能レベルだったり、特別な家庭環境であったりするわけではないようだ。園での遊び時間には、４～５歳の子どもたちらしい様子がうかがえる。しかし、一旦ロウソクに火が灯されて「哲学」が始まるや、彼らはちいさな哲学者たちになる。子どもとは何者だろう？そして、もしかすると、自律した市民による連帯の社会とは、このような哲学を積み重ねた人々によって成立する場なのかもしれない。幼稚園は、社会人へのスタートの場ということだ。映画の原題も、なんと”Just a Beginning”である。この頃、いいドキュメンタリー映画が目白押しだが、ガツンと一撃を求めて「考える人」になろうとしている方に、ぜひお薦めしたい一作だ。

※映画パンフレット画像の使用については、配給会社の許可をいただいて掲載しています。]]></description>
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         <pubDate>Wed, 01 Jun 2011 00:00:57 +0900</pubDate>
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         <title>【コラム】 求められるサービスの質の向上</title>
         <description><![CDATA[<img alt="111.jpg" src="/terrakoya/column/images/111.jpg" width="250" height="300" align="right" hspace="10" /></a>　３月の半ば、イギリスへ出張した時のことである。ロンドンにて地下鉄で移動しようと電車の到着を待っていると、ホームの壁面に掲載された広告が目に留まった。そこには、“Take a fresh approach to maths”という見出しが掲げられていた。「数学に新たなアプローチをする」。すぐにその訴えかけがピンとは来なかったが、よくよく続きを読んでみると、それは教師募集の広告であることがわかった。
日本の感覚からすると学校の先生を募るにあたって、このような広告のスタイルで大衆に訴えかけるということは少し見慣れない光景である。ある種、教師というとどこか聖職のような立ち入り難さがイメージとして抱かれるからであろうか。
そんなことを思いながら、その広告の最後には「あなたの才能を教育に有効に活かしては」というフレーズで締められていた。教育ということに関して、新たに楽しさや面白さといったエッセンスを加えて、質を高めていきたいという意図が伝わってくる。

　ちょうど１週間ほど前、これからの地域創造について考える研究会に参加した際、社会における「所得配分の不平等」や「貧困の格差」の問題解決には、社会保障の経済的パフォーマンスの向上が欠かせないとの指摘がされていた。ここでも“質”ということにフォーカスが当てられていた。その中でも強い訴えとなっていたのは、社会保障では、従来の現金給付からサービス給付へシフトすべきだという点である。
よく言われているように、北欧諸国などでは、住民が享受する質の高い教育や医療などのサービスが、社会での暮らしに効果的に活かされている。具体的に貧困率（2009年）を見てみると、スウェーデンでは5.3ポイントであるのに対し、日本は15.3ポイントと大きく水を開けられている。アメリカの貧困率が17.1ポイントであることからも、日本が必ずしも良い数値でないことがわかる。

　実際にGDPに占める社会保障支出の割合（2005年）もみてみると、スウェーデンが28％、一方で日本は18％に留まっている。ここでも、日本はアメリカの15.8％という比率により近くなっている。
　社会保障の質の高さというと、たとえば教育では学校教育だけでなく、リカレント教育と呼ばれる社会に出てからも教育・訓練機関に戻って来て学べるように、２本立てでしっかりとケアがなされていたりする。このようにサービス給付を充実させることで、社会としてより強固な基盤づくりが実現され、暮らし良い好循環が生み出される。必ずしもお金を配るだけでは解決されない社会的問題が少なくないからだ。

　ところで、甚大なる被害をもたらした今回の東日本大震災後の日本について見てみても、同じようなことを考えなければならないのではないだろうか。つまり、義援金などの現金給付は必要であるとともに、実際の物やサービスといったところのケアが充実しなければ、地域の復興はなかなか進まないということである。
　日々のニュースでは、ボランティアとして、多くの人々が各自の持ちうる力を活かして現地で活動する様子が伝えられている。被災地の人々にとって、こうした直に伝わる支援が大きな助けになっていることは容易に想像できる。
　これからの社会がより良くなり、人々が暮らしやすくあるためには、人同士が受け渡しするサービスの質についてもっと考えるべき時期に来ているように思う。そこでは、これまでのやり方に縛られず、諸外国から学ぶ、また災害を契機に学ぶなど、それらを確実に変化へのきっかけとしなければならないであろう。]]></description>
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         <pubDate>Sun, 01 May 2011 00:00:00 +0900</pubDate>
      </item>
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         <title>【コラム】 科学に何を学ぶべきか</title>
         <description><![CDATA[ 　東日本大震災により被災されている皆様に、心よりお見舞い申し上げます。
	
　今回の地震災害は、さまざまな問題を提起していると感じます。直接被災を受けていない地域にいる者であっても、そのすべてから目を逸らさず忘れることなく未来に生かしていく責務があります。このてら子屋コラムの場では、「科学を学ぶ」ということについて今、改めて考えてみたいと思います。

　人々に大変便利で快適で豊かでたのしい生活を支えてくれているというのは、科学が生み出した技術がもたらしてくれた恩恵です。しかしご承知の通り、使い方や場合によってはとんでもない事態を引き起こします。専門家による科学的理論に基づき設計された技術は、“ある条件のもとにおいて”正常、安全安心に作動することが約束されていますが、それは裏を返せば、想定外の条件下には正しく作動しない可能性も残されているということです。にも関わらず、専門家以外の人々にとって科学技術は万能の魔法のようであり、その「有限性」を意識せずに暮らしています。

　どうも、科学は疑いをさしはさむ余地なく、確立された知識体系であるというイメージを多くの人々が持っているように感じられます。これには科学教育に由来する問題だと考えられます。
　人々が最初に科学に接し、科学というもののイメージを形成する場は、学校教育でしょう。小・中・高で手にする教科書には、確かに「既成の科学」しか載っていません。「地球が太陽の周りを回っている」といった、昔の科学者たちが諸議論を乗り越えて正しさを証明してきた結果だけが書かれています。結果を覚えておけば当該のテストに困ることはありません。しかし、その理論がどうして正しいのか、どういう手続きを踏んで正しいとされたのかという過程こそが、実は科学が信頼でき、面白く、尊い部分です。
　科学の歴史を調べてみますと、教科書に載っているような理論が証明される前は、大抵違う説を提唱していた科学者がいて、しかしその説の間違いが実験などによって証明されたり、あるいは現象をもっとうまく説明できる他の理論によってひっくり返されて発展していく、といった紆余曲折と試行錯誤の歴史の末に、科学の「正しさ」というものはあります。
　また、科学者や研究者が研究という営みを通じて行っているのは「ここまではわかった／だけどここから先はわからない」という境界線を明確にして、その中で少しずつ分かっていく部分を増やしていくことです。こういった科学の発展の歴史、科学のつくられかたを知ることは、科学ときちんと付き合うために学ぶべきことではないかと思います。

　過程を知る、ということは、科学技術の裏にある仕組みを知る、ということとも根っこでつながっています。科学技術が日常生活にこれだけ浸透してきた現代においては、やはり科学とその産物である技術との仕組みもある程度理解できる素養を持つことも大事です。
<img alt="110.jpg" src="/terrakoya/column/images/110.jpg" width="311" height="209" align="right" hspace="10" /></a>「電気」を改めて意識する生活を送るようになってたびたび思い出すのが、2008年のてら子屋ワークショップ<a href="/terrakoya/activity/08.html">「電気ってなんだろう？」</a>です。
　電磁誘導の実験では、エナメル線をぐるぐる巻いてつくったコイルに棒磁石を出し入れして電気をつくりました。この非常にシンプルな動作で電気がつくれる、ということに子どもたちは非常に驚き、面白がり、また電気を身近に感じているようでした。電気をつくることの大変さも知りました。磁石を動かしているうちは、回路につないだモーターの先に着いた旗がくるくる回るのですが、手を止めてしまうとすぐに動きは止まります。またモーターよりも電気を必要とする豆電球を明るく光り続けさせようとすると、腕のほうがへとへとに疲れてしまいます。電気を常に作り続けるためには、磁石かコイルのどちらかを動かし続けていなければならず、でもそれは非常にエネルギーを要する仕事なので、火や水、原子力といったパワーを借りることで一度にたくさんの電気をつくる仕組みがある、という話を、子どもたちはふんふんと頷きながら聞いていました。このワークショップを終えて、電気がどこから来るのか、電池の中で何が起こっているのか、なぜ東と西では周波数が異なるのか、発電方法の違いについて、ワークショップから家に帰って実験しながら話してくれました、と後日、参加者の保護者の方からいくつか声もありました。「わかる」ということは、単に知識を持っているということではなく、このように知識が身体化されて、自分自身の言葉で語れることを言うのでしょう。

　いまだからこそ、科学を単に知識としてだけでなく、その考え方までもを学ぶ社会を目指したいものです。現象と真摯に向かい合う姿勢、事実から言えること／言えないことを明晰に切り分けられる判断力、表面だけでなく物事の背景にある仕組みに興味を向けられるアンテナの広さ、部分ではなく全体を俯瞰できる知性、正しく疑う方法。こういった真の意味でのサイエンス・リテラシーを身につけていくことが重要であり急務であると考えます。]]></description>
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         <pubDate>Fri, 01 Apr 2011 00:00:00 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>【コラム】男時の勉強、女時の学び～プリコラージュへのゆとりの学びを～</title>
         <description><![CDATA[<img alt="109.JPG" src="/terrakoya/column/images/109.JPG" width="155" height="207" align="right"/>
　桃の節句の三月です。男雛と女雛、そこに付き従う人形たち、華やかな段飾りからは、春の訪れ「節句」が感じられます。
　ところで、男時（おどき）と女時（めどき）という言葉をご存知でしょうか。能役者の世阿弥が使い始めたようです。勝負にあたって、イケイケドンドンの勢いが自分にある時を男時、その逆に何をやってもうまく運ばず、無理せずジッとしていた方がよい時を女時と言っています。（最近の現実世界では、男女の使い方が明らかに逆ですが）漢語の「雌伏」と「雄飛」という言葉も同じように重なりますね。

　世阿弥は、男時と女時は誰にでも交互に訪れる時の流れだから、それに逆らってもしょうがない、宿命として受け入れた方がよいと言っています。今の日本社会はどちらでしょう？やはり、「女時」でしょう。ならば、無理に成長に乗ろうとするばかりでなく、いかに暮らしと生き方の成熟を図って、次の社会へのイノベーションとソフトランディングを準備するかを忘れてはならないでしょう。それは、成熟期、踊り場、定常期と言われようとも、決して何もせずに退屈に過ごす時とは違うはずです。

　私は、女時こそ文化創造の時、あの文化人類学者レヴィ・ストロースが取り上げた「プリコラージュ」（日常生活の中からの自分なりの試行錯誤と創意工夫の知恵）の時代だと思っています。これは、理論的にキッチリ構造を組み立てて計画的に組み上げる「エンジニアリング」の逆側の概念です。ですから、工業社会のパラダイムとは違います。効率性という尺度をあてると、とても低い営みです。しかし、創造性、人間性は高い営みのはずです。そこには、社会に根ざして自分の生活から文化を編み上げていくような生き方が必要ですし、特に「学び」が重要になるでしょう。

　そこで、世の中の学習シーンを大胆に２つに分けてみます。一つは、資格取得やスコアアップ、仕事直結のハウツー獲得など、何かの実用的なモノサシの上で、もっと上を目指すための勉強です。もう一つは、自分なりの整理や納得、明日への心の蓄えを積み増したり、心の構えを深掘りしたりするための学びです。いかがでしょう。こんな切り口から女時の学びを考えてみます。

　一つめの勉強の姿は、最近の通勤電車の中で見つけられます。若い人たちを中心に、通勤通学途上に資格試験対策や英語の勉強をしている人たちが少なくありません。大学入学と同時に、ビジネススキルや資格取得の予備校にも通い始めるのも珍しくないようです。目の前の問題に向かうための真面目な姿勢、世の中の停滞感の渦に巻き込まれないための勉強と言えるでしょう。

　後者の学びについて、最近参加したセミナーの場などを思い起こしながら考えてみます。すると、居眠りオジサンビジネスマンの参加が少なく、若い人や老若問わず女性参加者の多いセミナーに見つけられるある特徴に気づきます。このような場は、一方的に即効性の高いハウツーを「受け取る」場ではありません。「ワークショップ」や「ダイアローグ」、双方向のコミュニケーションを通してより深く「考え合う」学びの場です。いや、学ぶだけというよりも、「遊ぶ」「学ぶ」「働く」が渾然一体となったような場です。こういう学びこそ、じつは「プリコラージュ」への学びではないかと思うのです。

　今の日本は、明らかにパラダイムシフトの渦中です。ウカウカしていると弾き出されかねない。だから、生き残るために仕事や学業直結の勉強が優先されるのは当然かもしれません。しかし、女時に必要な学びはリスク回避だけではないはずです。次の時代をよりよく生きるための、時空間を広げて思いを巡らせる「ゆとりの学び」も大切です。
　最近、「教養」や「哲学」、「対話」や「議論」の大切さを指摘する、国内外トップクラス大学の学長や教授たちの発言が目立つようです。サンデル教授の「白熱教室」人気も、その表れの一つでしょう。これらは、まさに「ゆとりの学び」です。女時だからこそ大切な学びだと思います。

　少なくとも、次代を担う子どもや若者たちの学びに、そういうゆとりを確保できるように支えることが、これまでの男時の勢いをさんざん享受してきた中高年層の社会的責任ではないでしょうか。女時とは、若者に「覇気がない！」などと叱咤すべき時ではないのです。
　プリコラージュの原動力は知恵です。知恵とは、知識が個性の中で時を経て、発酵して生まれる、その人ならではの旨みのようなものではないでしょうか。そこここで、知恵がプクプクと発酵しているような、そんな女時の社会と学びの場を目指したいものです。確実に、女の時にはなっているとは思いますが。]]></description>
         <link>http://www.hrnet.co.jp/terrakoya/column/109.html</link>
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         <pubDate>Tue, 01 Mar 2011 00:00:15 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>【コラム】本質を学び、社会が変わる行動へ</title>
         <description>　個人の寄附金額について国際比較をみてみると、日本とアメリカではその総額に約100倍の開きがあるという。ちなみに、アメリカは2007年の寄附金総額が21兆円にも上り、日本のそれを大きく上回ることは言わずもがなである。ただ人口規模による関係もあるため、実際の一人当たりの平均寄附金額へと換算をすると、日本が1,828円（2008年）に対して、アメリカは66,955円（2007年）だそうだ。
　こうして現実的な数字で示されると、寄附ということに関して、個々の立場から考えることができる。「日本人だけど、もっと多く寄附をしている」と思う人もいるであろう。しかし、周囲を見渡してみても、寄附ということが必ずしも日常的な行為として定着していると実感する機会はそう多くはない。

　そうした日本ではあるが、昨年末から“タイガーマスク運動”として盛んに取り上げられているニュースが目を引く。漫画「タイガーマスク」の主人公などを名乗る匿名の寄附によって、児童福祉施設へランドセルなどの品物が贈られるという出来事が全国的に相次いでいるからだ。
　昨年12月、来春小学１年生になる子どもを持つ母親への意識調査の結果について、小学館がレポートを発表している。それによると、「入学に際して慎重に選ぶ準備品」では、１位「ランドセル」、２位「学習机」、３位「防犯グッズ」だという。今回、児童福祉施設へランドセルを贈るという行為について、贈り主の思いを考えてみたところで推測の域を出ることはない。だが、このような調査結果を通してみると、贈り主は現状への理解がある程度あった上で行動を取っているのではないか。そうした見方をするとその心遣いもより強く感じられたりもする。

　ところで、以前ＨＲＩの機関誌「てら子屋vol.11」の発刊の際、取材先としてお世話になり、最近ではこれまでの奮闘記が一冊の書籍「子どもたちの放課後を救え！」（川上敬二郎著）にまとめられたとの便りももらった、「放課後ＮＰＯアフタースクール」というＮＰＯ団体がある。この団体は、子どもたちの放課後に豊かさを贈り届ける活動を進めている。
　彼らの活動は、今の子どもたちが置かれている放課後への危機感に動機付けられている。それは、子どもたちの「時間、空間、仲間」という３つの“間”、また「両親」「学校や塾の先生」以外の“第３の大人”との接点、という２つが失われているという指摘である。これらの問題を解決すべく、地域や企業などから市民先生として協力してもらえるような仕組みを作り、活動を力強く推進している姿がある。

　日本は欧米と比べると、寄附文化やＮＰＯ活動が脆弱かつ根付きづらいとの指摘を耳にする機会が多い。ただ、欧米では、芸術活動や社会活動などにおいて明確なテーマを打ち出すことにより、その主旨に賛同しやすくして、多くの寄附や協力を募ることに成功しているという。
　そう考えると、今回の取り上げたタイガーマスク運動やＮＰＯ活動が広がりを見せるというのは、まさに分かりやすく、賛同しやすい主旨が少なからずあるからに他ならない。学びにおいては、よく本質を理解することが大切であると言われている。それと同様に、人に寄附や協力などを惜しまずに実行へと移してもらうためには、それぞれの事象の本質が明確に、分かりやすく伝わることがその第一歩になるはずである。


○「小学一年生 子どものための安全防犯大百科」
http://family.shogakukan.co.jp/special/safety/
○「てら子屋Vol.11」　CASE STUDY
　放課後NPO「After School!!」－「市民先生」を発掘する放課後専門コーディネーター
http://www.hrnet.co.jp/publication/pdf/terra11_2b.pdf</description>
         <link>http://www.hrnet.co.jp/terrakoya/column/108.html</link>
         <guid>http://www.hrnet.co.jp/terrakoya/column/108.html</guid>
                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">column</category>
        
        
         <pubDate>Tue, 01 Feb 2011 09:58:32 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>【コラム】 学びと遊びのダイナミクス～2010年集めたピースのご紹介から～</title>
         <description>　新年あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。
　てら子屋の活動はしばらくお休み中ですが、「子ども」「学び」などをテーマにした研究会などで水面下では継続的に研究を行う中で、面白いアイデアのピース（断片）を蒐集しています。Twitterでつぶやくには過多ですが、レポートにまとめるには明確な全体をなしていないこれらを、この場を借りて整理を兼ねて少し披露させていただきたいと思います。お付き合いください。


　証言その１。
　あるゲームメーカーの海外事業部の方曰く、日米のゲームコンテンツ市場は全く異なる性質があるとのこと。曰く、日本の小学校低学年の子どもに人気のアクションやＲＰＧが、北米の子どもたちにはレベルが高すぎる。北米向けコンテンツはゲームレベルを下げ、時にばかみたいに簡単なゲームが喜ばれる。しかもルールを理解してからプレイするという手順を踏まないので、そんなシンプルなゲームですらすぐに「死」ぬ。むしろ何度も「死」にながらルールを覚えていくことに面白さを見出している、のだそうです。いかに「死」なずにゲームをスマートにクリアするかを競う、日本の遊び方と大きく異なるということでした。
　さらに違いは10代後半から20代の青少年をターゲットにしたゲームにも現れていて、そこでは逆に、これまた日本では全く売れないような、複雑で緻密なロジックが求められるハイレベルなゲームが人気だと言います。
　この、幼少期から青年期にかけてのプレイスキルのジャンプは一体何なのか。文化？あるいは脳の発達の違い？と開発スタッフは首をかしげているのだそうです。


　証言からの連想その1。
　そこで思い出したのは、ある帰国子女の有名人がテレビで言っていたアメリカの小学校での経験でした。小学校低学年のころ、途中転入したアメリカの算数の授業では、先生：「箱の中のビンのフタを数えましょう、いくつありましたか？」、生徒：「５つありました」、先生：「はいよくできました」といったやりとりがなされていたそうです。そのあまりに簡単な内容の授業を彼は全く馬鹿にしており、その後の授業も疎かにしていたら、あるとき急に難しい数式や理論が出てきて、それを難なく周りの友達は操っていた、自分は全く置いてけぼりをくらってしまったと言います。


　考察その１。
　どうやら子どもの能力は「非線形」に発達する場合がある、ということがこの二つのエピソードから推測されます。毎日同じだけの量が同じペースで積み重なっていくというのではなく、あるポイントに達すると爆発的に伸びるというイメージ。
　その詳細の解明は今後の宿題にさせていただきたいのですが、どうやら「ゲームで何度も『死』につつルールを覚える」とか「ものを触って数える」といった「身体性」「経験」がまず先行していること、そこに何か秘密が隠されているような気がしてなりません。


　考察から再び、連想その２。
　続けて思い出したのは、アメリカのホームステイ先の家庭の様子でした。その家には小学生の子ども２人がいたのですが、机というものが部屋にはなく、子どもたちはいつもリビングやソファー、時にはベッドに寝っ転がりながら宿題をやっていました。映画やテレビドラマなどで見ていても、アメリカの子ども部屋の机というものはごくシンプルなもので、日本のそれのようないかめしくてシステマティックな存在感はありません。
　そういえば私の出身の大学も、外国人教授が中庭で授業をしたり、留学生が芝生で横になりながら本を読んでいたりする風景が日常的にありました。

　

　考察その２。
　つまりアメリカと日本の大きな違いは、「学びと遊びの時間と空間の仕切りがあるかないか」という点かもしれません。
　日本では小学校入学時、お祝いとして勉強机や学校用のカバンを買い与え、また居間にいる子どもに親が「自分の部屋に行きなさい」と言うのは「勉強しなさい」ということと同義になっています。つまり学びと遊びの時間と空間の仕切りがキッパリと存在しているわけです。
　ただ近頃は「リビングで勉強させたほうがいい」という子育て指南も出ているのは、その主張の正しさの根底には、アメリカの子どもの環境のようなあいまいな時空間のあり方が関係しているかもしれません。

　
　とりあえずの、まとめ。
　ここまで書いているうちに、以前てら子屋に10年ぐらい通ってくれていた男の子が「てら子屋はさ、自由に遊べる部分と、話を聞いたり考えたりしてしっかり身につく部分と、どっちもあるのが良いんだよね」と言っていたことをふと思い出しました。これはてら子屋の核心を驚くほど的確についた発言で、当時も大変印象深かったのですが、改めて考えてみますと、このてら子屋哲学と共通したものが、先月のコラムで中間さんが訪ねたような、西海岸の元気の良い企業にも見て取れると思うのです。彼らの仕事には、おもしろ半分の発想、自発性、自然さ、奔放さ、柔軟さ、大胆さ、といった遊びの要素がふんだんに見受けられます。それを一方で確かなビジネスにつなげていくという実行力、革命力、ガッツ、インテリジェンスも持っている、というのが素晴らしいし心憎い。

　人々はどうしてもラベルを貼ったり分類したりして整理整頓するのを好みますが、あえてごちゃごちゃと雑多にしておく中から生まれる面白さがあるような気がします。「学び・遊び・働き」を、言葉によっても時間によっても空間によっても区別せず、渾然一体となった地続きの営みとして、ただたのしむ力。のめりこむ力。それこそが、２１世紀型の「生きる力」となるように思うのです。</description>
         <link>http://www.hrnet.co.jp/terrakoya/column/107.html</link>
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         <pubDate>Sat, 01 Jan 2011 00:00:00 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>【コラム】 経験と教育～デューイの教育哲学に未来可能性を見る～</title>
         <description>　アメリカ西海岸に来ています。「デザイン」の新潮流についてディスカッションすることが目的です。柄にもなくイマドキのビジネスマンを気取って、羽田発の深夜のフライト（あまりお勧めできません。徹夜明け状態です）でロサンゼルスにやってきました。初日の今日、カリフォルニアの脳天気な青空は健在な中、とても爽快とは言えない朦朧とした気分のまま、朝からデザインスクールやデザインハウスに出かけてきました。

　しかし、やはり「本物」、「本人」、「本場」、我らの「てら子屋三本主義」は本当です。ディスカッションを始めるや否や、鈍っていた私のセンサーは突然レベルが上がり、各訪問先で予定時間をはるかに超えてしまうほど互いに盛り上がりました。「デザイン」は大きな変化の渦中です。キーワードは「経験」です。

　『経験経済』というコンセプトが注目を浴びてから、だいぶ時間は経ちました。それは、「サービス経済」の先に現れる近未来経済という位置づけでした。当時、私もおもしろく見ていましたが、バブル崩壊などで姿を消してしまったと思っていたら、今、デザインの世界では「経験のデザイン」が、コンセプトではなく、大きな現実テーマになりつつあります。モノの形や使いやすさの範囲を超えて、サービスを含め込みながら、社会的な状況の中での経験という「コト」として、顧客に価値を提供できるようにデザインするというわけです。

　さて、それが「てら子屋コラム」の題材と何の関係があるの？みなさん、いぶかしく思っているかもしれません。しかし、あるんです。「経験」と聞いて私が即座に思い出すことの一つが、Ｊ．デューイの教育哲学です。手短に言うと「子ども自身の経験こそが好奇心を喚起する。そこに、独創力や学びへの願望や、学ぶ目的意識が生み出される。それこそが、子どもの能動的な成長なのだ」ということでしょう。まさに、私たちの「てら子屋」発想の原点でもあります。

　ひるがえって、今の教育や子どもたちの学びの現状はどうでしょう？きっと、家庭のご両親や受験産業の渦中の方々からは、「経験しながら学んでいくなんて、理想かもしれないけれど、そんなことしていたら今の世の中どうなるか。きっと負け組街道一直線でしょ。子どもたちにはすごい知識吸収力があるんです。それを活かさない手は無い。経験しながらなんて悠長なことを言ってないで、知識吸収の達成感を成績という見える姿で味わいながら、可能な限り伸ばしてやろうとするのが、子どもに対する愛情じゃないですか」なんていう声が上がるのかもしれません。

　しかし、社会の変化はガラガラと現在進行中です。目先の表層知識の獲得に追われていたらきりがなくなるでしょう。知識社会版「モダン・タイムス」になりかねません。未来を担う子どもたちに、今こそ「学びのルネッサンス」が必要とされていると感じます。子どもたちの学びの場には、やはりリアルに足場を固めて進める「経験」のペースに合った「学び」としての「教育」が重要だと思うばかりです。早期教育のような、経験ペースをはるかに超える「強育」ではないはずです。だから、社会のルネッサンスも必要です。

　教育の目的とは何でしょう？私は、デューイの主張するように、子どもたちに対する未来の責任と、未来を生きる上での成功の準備だと思っています。その未来というのは、いきなり想定できない遠くの未来でも、はるか昔の歴史を踏襲する未来でもないはずです。

　そんな教育の場づくりに必要なのは、子どもたちの成長経験という、状況のデザインではないかと思うのです。そう考えた時に、学びのあり方の未来可能性が見えてくると。
　ビジネスのマーケットは、教育システムよりもずっと正直で柔軟で未来志向な面があると感じます。それゆえに、「経験デザイン」というビジネス世界の先行現象を無視してはならないと感じたのです。このコラム、興奮冷めやらないディスカッション直後の走り書きゆえに、この出張を終える頃には書き直したくなっているかもしれません。ぜひ、それも経験を通した成長としてご容赦のほど、よろしくお願いいたします。</description>
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         <pubDate>Wed, 01 Dec 2010 00:00:00 +0900</pubDate>
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         <title>【コラム】 遊びから学ぶ現実</title>
         <description><![CDATA[　日常から一時的に距離を置くために遊びに出掛けたつもりが、日常の中で起こっている問題に目を向けざるを得なくなる。最近、そんなシチュエーションに遭遇する機会が増えているような気がする。

<img alt="105.JPG" src="/terrakoya/column/images/105.JPG" width="240" height="180" align="right" hspace="10" /></a>　例えば、夏休みを利用して南の海に潜りに行く。すると、温暖化などの影響で白化現象が起きているサンゴを見かけるというのもその一つだ。本来なら、色とりどりの熱帯地域の魚やサンゴ礁が海中の豊かなシーンを彩り、その空間に身を置くことで普段とは異なる非日常の雰囲気を楽しめるはずである。しかし、白くなって崩れてゆきつつあるサンゴの姿を目にしてしまうと、どこか現実に引き戻される感覚が生じる。
日頃、世間では環境問題がクローズアップされており、そのような意識は幾分頭の片隅にあったとしても、わざわざ遊びの場にまでそれを持ち込む人はそう多くはないだろう。実際、それでは心の底から遊びを満喫できない気分に陥る。ただ、現実にそうしたものを目の当たりにすると、普段伝え聞く以上に、重い事実として受け止めてしまいがちである。それはどこか、強制的な教えの類のようなものである。

　今後、こうした日常が抱える問題の顕在化が進むにつれ、以前のように遊びということも容易く語れなくなってしまうかもしれない。現に、ダイビングのスポットとして有名な沖縄県慶良間諸島では、周辺海域へのダイバーの立ち入り人数の制限が来年にも実施されようか、といったところまで議論が進んでいると聞く。これはサンゴの白化現象とは直接的な関係はないにせよ、自然保護という観点から、まずは人的な影響を抑えていく動きである。

　同じような状況は、季節や場所が変わっても見ることができる。なかでも、冬のスキー場の景色なども、かつてと比べると積雪の量が随分少なく、ウインタースポーツに最適な時期も短くなっている印象を受ける。ここにも少なからず環境問題という現実が見え隠れする。今年２月、長野県飯山市のスキー場を訪れた時にも、それは実感することができた。
　その際、泊まった宿では、冬はスキーやスノーボード客、夏は合宿をする学生客が主である。ただ、冬のシーズンが短くなる中、最近は春に田植えの体験学習に訪れる小学生の受け入れを行うなど、利用者層に広がりが見られるという。宿の経営に対する危機感から出てきた取り組みに、先の沖縄での規制を行うケースとはまた異なる、少しポジティブな姿勢が窺える。ここで共通して言えることは、地域の環境や生活を破壊せず、自然や文化に触れるエコツーリズムという方向へ遊び方もシフトしていることである。

　近頃聞いた話の中で、今の子どもたちに自分たちが暮らすまちの未来像を描いてもらうと、自然環境を意識しているせいか、「緑の色使いが多い」「車は全てエコカー」といった傾向があるそうだ。そこには、子どもたちが日々の遊びや学びの中で見聞きする様々なものが含まれていることが想像できる。
　大人、子どもを問わず、遊ぶことにすら不自由さを感じる気配が漂う中で、昔は“よく学び、よく遊び”という言葉がしばしば使われたことを思い出す。現在においては、その順序を逆にした「遊ぶことから、よく学ぶこと」も同時に増えてきているように感じる。こうした「遊び」と「学び」の双方の視点を上手く両立、また組み合わせていくことが今後より求められていくに違いない。]]></description>
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         <pubDate>Mon, 01 Nov 2010 00:20:00 +0900</pubDate>
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         <title>【コラム】 デジタル社会の人付き合い</title>
         <description>　良きにつけ悪しきにつけ、情報のデジタル化が社会に与える一番のインパクトは「永遠に残り続けること」なのだなと改めて感じたのは、この夏の「ワイヤレスジャパン2010」でKDDI研究所のセミナーを聴講したときだった。ネットいじめをテーマにしたセミナーで、いまの小・中・高の児童たちの人間関係をめぐるトラブルの分析から、ケータイマナーを子どもに伝えたり、学校教師や保護者に向けて対処法を講じていくことの重要性が指摘された。

　人間関係のトラブルは昔から存在する。人間が群れをなして生活する以上、避けられない問題なのだろう。
　人間関係がもつれるきっかけ自体は、以前とそう大きく変わったわけではないようだ。つい言い過ぎたり誤解したりなど、ここまではよくあることである。
　ただそのいざこざが起きている場が、リアルからウェブ空間になっているのが大きく違ってきている点である。ブログやプロフィールサイト、学校“裏”サイトの掲示板等に、感情に任せて言葉を書き込む。それを目にした本人が腹を立てて売り言葉を買い、さらに関係がこじれていく－－とループが、今のトラブルのパターンらしい。

　言い過ぎや間違いなどは、誰しも経験することである。そういった失敗に対して、これまでは「ごめんなさい」と詫びたり、誠意を持って訂正したり、言われた方も相手を誠意を受け止めたり許したりしながら再び付き合っていく中で、人間関係は修復されていた。それが自然にできていた時代は、今ほどの深刻なトラブルには発展せず済んでいたのだろう。
　ただデジタル社会においては、“失敗”が記録され保存されて残り続けている以上、忘れたくてもなかなか忘れられないところに、根本的な悩ましさがあるように思える。人間の“忘れっぽい”という特徴は存外、人間関係を円滑にするための大事な特性だったのかもしれない。大人ですら文書に保存された事柄を水に流して仲良くやることは難しい。そういった高等な作法を子どものうちから身につけるのは難儀なことである。

　もちろんデジタル技術、それ自体に罪があるわけではない。デジタル社会を、30年、50年生きた人が誰もいないというところで、期待と不安が入り混じるのだ。先月のコラムのように、電子教科書などの新しいデバイスやネットワーク環境が、子どもにどんな創造性や可能性を与えるのかは面白いところである。ただ、デジタル技術の進展の速さほど、人間の文化や社会や感情が迅速に変化しているわけではないということを自覚することもかたや大事なのだ。
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         <link>http://www.hrnet.co.jp/terrakoya/column/104.html</link>
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         <pubDate>Fri, 01 Oct 2010 00:00:00 +0900</pubDate>
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