MONOLOGUE

2021.10.28

感覚を塞いで得る安心と快適は未来か?

 新型コロナの蔓延の勢いが収まり、私もオフィスに出かける頻度が増えました。朝夕の通勤電車内は、以前のような混雑が戻ってきたように感じられます。そういう久しぶりの通勤電車で、社内をボーッと眺めながらふと思ったのです。

 車内の全ての乗客は、マスクを着用しています。だから、口と鼻を隠しています。社内の8割くらいの人は、周囲に関係なく、手元のスマホを凝視し続けていて目を動かしません。そして1割くらいは寝ているので目を閉じています。そして、スマホを凝視している人たちの手にはスマホがあり、指の腹でタップ、スワイプしています。さらに、3割くらいの人の耳にはイヤホンが付けられています。

 もう、私が何を言いたいかはわかったでしょう。電車内で見渡すと、ほとんどの人が、視覚、聴覚、嗅覚、触覚という人間の感覚器官を全て塞いでいるのですね。驚きじゃありませんか?そうでもない?

 もちろん、これらの結果として、ウイルスから身を守り、心地よい音が入ってきて、愉しい映像や親しい人たちの様子を読み取れるわけです。これは、安心、安全、快適な未来の兆しとしても切り取れる絵姿かもしれません。

 しかし、みなさんはそういう未来を、心の底から待ち望んでいるのでしょうか?しかたのない未来、悪くはない未来、というレベルではないでしょうか?そこが知りたくなったのです。もちろん、人それぞれだと言えば、それまでです。望みたい未来を押しつけるつもりはないのです。知りたいだけなのです。

 私は、感性とか、感覚とか、感動とか、「感」を大事にしたい、研ぎ澄まし続けたいと思っています。その「感」は、どうしたら研げるのでしょうか?私は、「感」じる範囲のバラエティが大事じゃないかと思うのです。明るいところに幸せを感じられるのは、暗闇を知っているからじゃないかとか、暖かさを感じられるのは、凍える寒さを知っているからじゃないかとか、感じるラチチュードの広さが、その人の「感」の豊かさではないのかなと思ったりするのです。

 そうなると、自分の知っている範囲の中で、安全な中で、常時い続けるということは「感」を鈍らせるのではないのかなと。テクノロジーは得てして、最適状態の創出を狙ってデザインされます。機械は、ムダ無く最適地に到達するように動きます。しかし、人間は機械とは違うはずです。敢えて、ムダや余白を遊ぶことで、冒険することで、より豊かさを感じるのではと。機械は自らの意志で動けませんから。

ということを、豊かさとは縁遠い満員の山手線の中で考えていたのでした。そう言えば、解散総選挙やら緊急事態宣言の解除やら、慌ただしくしているうちに、夏から一気に冬になってしまったようです。秋や春は、私の中では大好きな愉しい「余白の時間」だったのですが、最近それが短くなってきているようなのが残念です。

ヒューマンルネッサンス研究所 所長
中間 真一
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