MONOLOGUE

2021.11.18

「スマホ付き人間」の文化を! ~やりとり文化の大革命~


 少し前になりますが、『スマホ脳』(原題は”Screen Brain”)という本を読みました。スウェーデンの精神科医アンデシュ・ハンセンさんの著書で、けっこう話題になっていたと思います。そこでは、スマホ依存の生き方の問題をとらえ、人と機械の関係の未来に対して警鐘を鳴らしていました。私も、脅威を感じました。
 しかし、既に私たちは、スマホ無しには生き辛い環境の中で生きています。肌身離さず、日中はもちろん、寝ている間も枕元に置いておくのも普通です。

 今まで、こんな道具はあったでしょうか?「腕時計」が、それに近いかもしれません。腕時計は、常に正しい「時刻を知る」ことで、自らの生活の「マネジメント」をするための道具として始まったと言えるでしょう。

 スマホにも時計代わりの用途もありますが、時間だけでなく、体調などのセルフ・マネジメントまで範囲を広げ、さらに暮らしのマネジメントに留まらず、人や情報とつながるための「コミュニケーション」の目的が加わりました。もはや、家族の電話番号も覚えていないので、電話をするにも公衆電話や固定電話では難儀です。メッセージや情報の受け取りと発信、お金の出し入れ、モノの売り買い、そういう自分の内側、そして外側との「やりとり」というコミュニケーションが、次から次に何でもスマホを通じて行える、行われるようになっています。

 今年2月に発表されていた株式会社PR TIMESの調査結果によると、スマホ利用時間の平均値は6時間58分とのこと。スマホを手に取ったり、通知が入る回数は、毎日50~100回が平均値という結果でした。食事中もスマホ、仕事中もスマホを見ながら、ということは、どうしてもスマホを見ることができない時間以外は、誰もがスマホを見ているという実態に近いのではないでしょうか。

 これは既に私たちの生活習慣になってしまっています。SNSの新しい通知を見落としていないか?メールが着信していないか?欲しいものを買うチャンスを逸していないか?常に、スマホアプリのアイコン右上の赤い●印と白抜き数字をチェックし続けていないと不安な、暮らしの空気と空間の中で生きていませんか?

 少々、スマホ批判っぽくなってきてしまいました。しかし、こんなことをつぶやき始めた趣旨はスマホ批判ではありません。こういう状態に対して、スマホ(に典型的に表されるような「技術」全般)が、人間を乗っ取っていくという不安を煽る話し方に棹を差したいのです。不安を煽るシンギュラリティ論に抗う気持ちです。

 つまり、スマホが人を乗っ取ったのでなく、人間が「スマホ付きの人」になったんだと考えた方がよいのではと思うのです。スマホ付き人間としての新しい文化を創ることが必要なんだと思っています。あのスティーブ・ジョブズの言葉を思い出しました。彼は「コンピュータは、知性のための自転車だ」と言っていました。人間は、移動のエネルギー効率がめっぽう悪く、生物ランキングでは下から1/3あたりに位置するのだそうです。ところが、人が自転車に乗ると、飛躍的に効率が良くなり、他を大きく引き離してトップに立つ。これこそがコンピュータのあるべき姿であり、知性にとっての自転車とでも呼ぶべき並外れた道具なのだと主張していたのです。スマホは、人間の脳にとって自転車にすればいいのではないでしょうか?そうすると、自ずとデバイスのデザインも今のスマホとは違うものに進化しそうです。

 これまで、蒸気機関や電力、自動車といった技術文明は、人間の身体を拡張して現在の物質的に豊かで安全な文化をこしらえました。そして「車輪付き人間」の文化が生まれた。だから次は、情報文明が人間の心と脳を拡充して、まだ出来上がっていない、こころと幸せの豊かな「スマホ付き人間」の文化をこしらえる時でしょう。それが、流行の「トランスフォーメーション」時代のイノベーションではないでしょうか!

 けれど、最後に加えておきます。文化はつくって加えて、変わっていくでしょう。しかし、生きものとしての私たち人間は、進化におけるルーツの「記憶」の力も強いはずです。

 その記憶とは、人間が地球上に登場してから長い時間を過ごしてきた狩猟採集生活時代の暮らしの脳の記憶であるはずです。だとすれば、新たな文化は、それを拒否する文化にはならないと思っています。私たちホモ・サピエンスの暮らしの記憶の累計の9割以上を占めるのは、広遠なサバンナに出てきて、狩猟採集生活を続けてきた記憶の蓄積のはず。だから、この記憶に反するのでなく、未来に活かすことが豊かな新文化の創出につながるのではないでしょうか。だから、「自然社会」という未来を示すSINIC理論はおもしろいのですよ。

ヒューマンルネッサンス研究所
所長 中間 真一
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