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てら子屋コラム

子どもが育つ「あたりまえ」
中間 真一

 あたりまえとは、誰もが疑問を持たずに、そのとおりだと思えるようなこと。だから、あたりまえのことなど言ってもしょうがないと人は言う。そして、世の中では、目新しいこと、目立つこと、今までと違うこと、刺激的なことを言ったり、つくったりし続け、次から次に人々の関心を惹きつけようとしてきた。「その場にとどまるためには、全力で走り続けなければならない」と、鏡の国のアリスで赤の女王が言っていたのを思い出すが、絶えざる差別化の営み無しに、この消費社会に居場所を持ち続けることはできない。

 しかし、果てしない「あたりまえ」からの離反の結果、あたりまえを失った社会は、おかしなことになりつつあるのではなかろうか。

 つい先日、政府の教育再生会議が、「子どもにうそをつかないように教える」とか、「授乳の時はテレビをつけない」、「早寝、早起き、朝食を習慣化する」、「子守歌をたくさん歌う」などを、子育て留意点の緊急提言をしようとして、結局それを断念した。理由は、あまりにもあたりまえで、わざわざ緊急提言までして政府が音頭をとって言うまでのことではないということらしい。

 たしかにそのとおりであろう。しかし、こういうことを言わなくてはならないほど、あたりまえがあたりまえでなくなっている社会、生活、価値観とは、かなり致命的な病状に陥っているのではないかと感じてしまった。「最近の子どもはおかしい!」とか、「すぐにキレる子どもたち」、「集中できない子どもたち」、「元気のない子どもたち」、「人と関われない子どもたち」、世の中では、何でもしゃべれる大人たちが、力任せに「子どもたちがおかしい」という調子でまくしたてている。しかし、すべては大人社会の便利さ、都合よさ、損得勘定によって、子どもたちにもたらされたことではないか。子どもたちは、大人社会の被害者でないか。

 このままではダメだ。未来への可能性がぜんぜん見えてこない。やはり、子どもの成長にとっての「あたりまえ」を取り戻さなくては、この問題は解決しないだろう。それでは、何が子どもの成長にとっての「あたりまえ」なのか?先の教育再生会議の提言案も、確かにあたりまえではあるだろう。しかし、なんやらしっくりこない。そんなハウ・ツーより、もっと本質的な「あたりまえ」に立ち帰らなくてはならないほどに事態は深刻なのではないか。つまり、人間という皮をかぶったままではなく、そんな薄皮をいったんめくって、内側にある生き物としてのあたりまえを見つめなくては。「子どもの成長のための場は、大人の都合や経済成長の都合ではなく、人間という動物が育つための都合が最優先されるのだ」という価値観を「あたりまえ」として、大人社会が再確認すべきではないだろうか。そう、人間という「動物感覚」だ。

 そんな「あたりまえ」を証明する場を目指して開園し、私たちも関わりを持ってきた風の谷幼稚園(川崎市麻生区)の取り組みは今年十年目を迎えた。そして、私たちのてら子屋の活動も十年目を迎えた。十年前に幼稚園に入り、てら子屋の常連として参加してくれた子どもたちは中学校に進学した。この子たちにとって、充分な成長の場が確保されてきただろうか。少なくとも、これまでの「てら子屋」の活動でお世話になった協力者の方々から寄せられた「この子たちは、普通じゃないね。すごい力を持っているね。目の輝きと集中力に驚くね。恐ろしいほどの食いつき方が尋常じゃないよ。なんで、こんな子たちが集まってくるの?」などの言葉は、その証左になっているのではないかと感じている。

 出張先に向かう新幹線の車窓から、田植え直後の田んぼがキラキラと眩しかった。なぜか、この時期の田んぼの光景が好きだ。不安そうに整列して並ぶ、たくさんのひょろっとした苗なのだが、先が楽しみな感じが水面で反射する陽光と共に飛び込んでくる。きっと、秋にはあたりまえのように立派に実り、黄金色の穂を垂れて田んぼを埋め尽くすことだろう。しかし、そのたくましい成長には、育て手の「手入れ」が塩梅よくほどこされている。そんな、あたりまえの力強い成長を支える場づくりを、これからも目指したい。
(中間 真一)


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