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てら子屋コラム

子育て「応援」社会へ
鷲尾 梓

 「こどもは社会のたからもの 身近な子育て応援活動実施中」-電車の窓からこんな文字が目に入った。「こども未来財団」のポスターだった。

 「一人ひとりのちょっとした思いやりが、子育て中の親をはげまし、元気づけ、大きな子育て支援につながります」というメッセージとともに、「具体的な事例」が挙げられている。「あたたかいまなざしで見守ります」「電車やバス等では席を譲ります」「困っている時は、はげましの言葉や手助けをします」「ベビーカーでの階段の昇り降りやドアの開閉に手を貸します」-どれも特別なことではなく、誰にでもできることだ。しかし、今の日本には、それを呼びかけなければならない現状がある。
 
 子ども未来財団が子育て中や妊娠中の女性を対象に行ったアンケート調査では、「積極的に子どもを産みたい、育てたいと思える社会ではない」と思う人が8割、「社会全体が妊娠や子育てに無関心・冷たい」と感じる人が4割を超えている。実際、小さな子どもを連れて電車やバスに乗るときの大変さや肩身の狭さは、近くにいるだけでもひしひしと伝わってくる。朝の通勤電車の中、泣き止まない子どもを抱えた母親に注がれる尖った目線は、「歓迎されていない」という無言のメッセージとなって、彼女たちを追い詰めている。その光景はさらに、「子育てって大変そうだ」というメッセージとなって、社会から子どもの姿を減らし続けている。

 象徴的なのは、「外出先で困ったときどうしますか」という質問に対する回答だ。「周囲の一般の人に協力を求める」と答えた人は1割に満たない。「駅員や店員など、公共の場で働いている人に協力を求める」も3割以下で、6割以上は、「我慢し一人で解決しようとする」と答えている。人ごみの中にあっても孤独な母親たちの姿が浮かび上がってくる。

 以前、出張で訪れたスウェーデンの電車の中で、これと対照的な場面を目にしたことがあった。電車から赤ちゃんを抱いた女性が降りてくると、その後ろから、ベッドのような特大サイズの乳母車を抱えた男性二人が続く。男性たちは女性の知り合いではなく、たまたまその場に居合わせた人たちだった。「ありがとう」と言い、女性が向かう先にはまた長い階段。回り道をすればエレベーターもあるが、すぐに周囲の人たちが手を貸してくれ、難なく階段を登っていく。

 そもそも日本で、人の手を借りなければ段差を昇り降りできないようなサイズの乳母車を使うことは考えにくい。子どもを抱いたまま片手で操作できる「ワンタッチ」機能が求められるくらいなのだから。特大サイズの乳母車で街に出られるのは、「どこにいても、誰かが助けてくれる」という信頼感、安心感があってこそのことだろう。

 以前、このコラムで「『バリアフリー』に必要なもの」と題して、車椅子で街に出る人にとっての「バリア」について取り上げ、物理的な環境と同様、あるいはそれ以上に、周囲の人々の態度や視線が大きなインパクトを持っている、と書いた。子育てについても同様で、制度やサービスといったフォーマルな「支援」とともに、日常の中で接する人びとの「応援」が、積み重なって大きな力となるのではないだろうか。「こどもは社会のたからもの」というメッセージを肌で感じとることのできる社会に向けて、できることはたくさんありそうだ。


こども未来財団 身近な子育て応援活動推進事業

HRI研究員コラム no.038 「『バリアフリー』に必要なもの」


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