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てら子屋コラム

大人から考える「アフタースクール」
澤田 美奈子

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 この度、「てら子屋 vol.11」を発刊した。テーマは「アフタースクール」。学校と家庭の間にある子ども達が育つ場を特集した1冊となった。アフタースクールの時間―それは学校とも、家庭とも違う、自由な時間である。この自由な時間のあり方にもっと眼差しを向け、豊かに過ごせる時間にしていくことが子どもの育ちを支えることにつながるのではないか、というのが今号の視点である。

 アフタースクールは、子どもが大人へと育っていくにあたって、知らず知らずのうちに影響をもたらしている時空間だ。その思いを強くする一つのきっかけとなったのは、昨年、偶然にも『てら子屋』誌のテーマが決まる少し前に観た『アフタースクール』という題名の映画である。これは中学時代を同じ学び舎で過ごし、現在はそれぞれの道を歩むかつての同級生たちの物語である。物語の中心はあくまで30代に突入した彼らの“現在”の中で起こった事件だ。学校や学生時代の思い出がメインに描かれているわけではない。だから(いったいどこがどう「アフタースクール」なんだろう?)と素朴な疑問が膨らんだ。だが終わりまで観て合点がいった。

 物語のラスト、登場人物たちの“現在”において起こっている事件を遡ると、学生時代の放課後に戻っていくのだった。つまり、大人となった彼らの“いま”は、「アフタースクール」の延長線上に存在していたわけだ。たとえ学生の頃の記憶はボンヤリとしか残っていなくても、当時は想像もしなかった自分に今はなっていたとしても、だ。現在を、過去から切り離されたものとしてではなく、学校で過ごしていたときから連綿とつながったものとして捉えること――そこに映画の大きなメッセージがあるように感じた。だからこそ、例えば「卒業」というような、時間軸にピリオドを打って区切るような言葉ではなく、「アフタースクール」というフレーズが選ばれたのだろう。

 ところで、大人にとって「アフター」といえばまず思いつくのが、「アフターファイブ」である。それは、職場とも家庭とも違う、自由時間である。仕事の同僚や友人と食事をするも、家族と共に過ごすも良し、お稽古事やカルチャースクールに通うも、一人で映画や美術館に出かけるも、あるいは何もしないで過ごすも良し、過ごし方が個人の裁量に委ねられた自由な時間であり、“ムダ”も許される貴重な時間である。もしアフターファイブの時間がなくなったり、そこでの過ごし方を誰かに指示されたりしたら、途端に窮屈なものになってしまう。それにアフターファイブを過ごす場所が、仕事場か家の中以外になかったとしてもひどく味気がない。

 子どもにとっての「アフタースクール」もそれと同様ではないだろうか。子どもは学校では生徒として、家庭では子として、それぞれの役割がある。アフタースクールの時間は、そんな子どもたちにとって役割から解放されるつかの間の時空間だ。子どもが主体となり、自立的に過ごせる場がアフタースクールなのである。

 20代後半となった私の同級生を見渡してみる。小学生の頃、一緒に遊んでいると、知らない学校の子どもを連れてきたり、商店街の大人達にやたらと話しかけていた子は、社会人になっても幅広い人脈づくりを得意としている。テレビゲームの攻略法に詳しかった少年は、今はゲーム会社の開発スタッフとして活躍している。塾や予備校にすすんで通っていた子は、今でも語学や資格取得のスクールに通って貪欲に新しい可能性に挑戦している。外遊びのとき、いつも近所の年下の子の面倒を見てあげていた友達は、今は幼稚園の先生かつ立派な2児のお母さんだ。大人にとっての“いま”の源泉はやはり、かつての「アフタースクール」にあるようだ。


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