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てら子屋コラム

同窓会という場の力
~コミュニケーションのポテンシャル~
中間 真一

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 卒業、そして新たな門出の時節だ。かくいう私は、長かったのか、あっという間だったのか、卒業から四半世紀の時間が経った。それを契機に、卒業25年記念大同窓会が先日開かれて参加してきた。出身校のおもしろい伝統として、卒業25年を迎えたおじさん、おばさんが卒業式に招待され、その後に、卒業した当時と同じホテルで、25年ぶりの大同窓会を開くのだ。当日は、900名近い同期のおじさん、おばさんが一堂に会したのだから、場内はものすごい興奮状態。そして、この強烈な誘因力を持つ場のすごさと不思議さを感じた。

 会った瞬間、「おっ、○○!」と思い出せる相手、姿形が変わっていることから、「うーん、もしや○△?いや、似ているけど違うかな?」と脳内データベース照合処理にかなり時間がかかる相手、いろいろなのだが、わかった途端に「お縲怐A元気だった?髪の毛は変わったけど、やっぱり変わってないな縲怐vと、すぐに会話のスイッチがONになる。「いま、どこで何やってんの?」から始まるのだが、すぐに会話は25年前の学生時代にタイムスリップ。「お前と実験やったおかげで、ほんと毎回手間がかかったよなあ」とか、「卒業できたのは、ほんとにあなたのおかげです」、「駅前のトンカツ屋で、バカみたいにおかわりしたな」など、すぐに場の時間は25年前に戻ってしまって、たわいもない思い出話に花を咲かせる。きっと、みなさんも覚えがあるのではないだろうか。

 さて、これほど円滑なコミュニケーションを瞬時に実現させる場「同窓会」とは、ナニモノだろう? ちょっと理屈っぽく字面を追いながら考えてみた。とりあえず、「同じ窓から、同じ景色を、同じ時に、共に見てきた仲間同士の集まり」とでも説明できるだろうか。ということは、なんらかの同じ価値観を共有できる連中と、あるいは同じ価値観を基盤にもった教育を受けた仲間たちと、共通のファインダーを通して世の中を眺め、それを心に記録してきた者同士ということではなかろうか。もちろん、記録した情報をどのように処理するか、すなわち「どう考えるか」は、それぞれの個性という処理回路で行われ、その結果を夜通しぶつけあったりしていた思い出もあるわけだ。

 いろいろな「窓」があり、その中の一つを通して、さまざまな仲間と考え、遊び、学ぶということは、私たちが人生を通してあたりまえのようにやってきたことだ。しかし、同窓会のあの異常な盛り上がりから察するに、その価値は、もしかすると素晴らしく大きいことなのかもしれない。たかが同窓会、過去をふり返ってみんなで懐かしんでいるだけでは、未来への前進が無いという批判もあるだろう。しかし、私はそうは思わない。先日の大同窓会には、確かな前進への力があふれていた。そして、そのかけらを持ち帰れたように思っている。それは、旧友との語らいからも、現役時代は聞き流しただろう卒業式での祝辞からも、自分にしみこんでくるものとして自覚できた。それは、自分だけでなく式や同窓会の後で、友人たちも同じことを言っていた。ということは、よいファインダー(窓)を持てる学校こそ、素晴らしい学校だと言うこともできるかもしれない。

 コミュニケーションやネットワーキングの真価がますます求められる時代、「同窓会」という不思議な磁場の意味は、もしかするとおもしろい研究材料かもしれない。折しも、団塊世代の大量定年退職が始まる二〇〇七年、きっと同窓会も花盛りとなるだろう。その活気を社会の力に変換し得る可能性があるのではないだろうか。同じファインダーから世の中を眺めてきた仲間同士だから生み出せる社会力が。

 一方、「同じ窓」と言えば、ちょっと気がかりなこともある。今の時代の同じ窓と聞いた瞬間に思い浮かんだのはマイクロソフト社の「Windows」だ。かつて、仲間と共に世の中を眺めた窓は、今や一人でパソコンに向かって眺める窓になりつつある。そして、多様な窓をブラックホールのように吸い込み、巨大な一つの窓と化している。もちろん、それが悪いとは言わない。しかし、あの「同窓会」の盛り上がりとは、何か違うような気も感じるのだが。


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