COLUMN

2012.04.01中間 真一

「持つこと(to have)」の幸せ、「自分であること(to be)」の幸せ

テーマ型のHRI研究員コラムも早3年半になりました。そこで、世の中のシステムの節目である4月からは、自由テーマのコラムにします。何かしら前の執筆者のコラムからインスパイアされたことを盛り込めると、「HRI連歌風コラム」になっておもしろいと思っていますが、どうなることか、なりゆきを楽しみにしていてください。
 
 というわけで、前作の鷲尾さんのコラム「有限を思う」、私は不意をつかれた気がしました。自分の若い(三十代くらいまで)頃には、「無限」を意識することはあっても、「有限」という言葉が日常生活の中で意識にのぼることはほとんどありませんでした。中学から大学まで、ずっとかなりハードな体育会の道を歩んできた私にとって「限界」という発想はタブーでしたし、社会全体もそういう「限界」に対する負の価値観を共有していたと思います。右肩上がりを目指すのみでしたから。
 
 70年代初頭のローマクラブのセンセーショナルなレポート「成長の限界」の発表、幾度かの石油ショックの発生、地球温暖化による異常気象発生などのたびに「限界」への危機感が騒がれはしましたが、喉元過ぎれば熱さ忘れていたのが実状だったと言えるでしょう。そして今、多くの人たちがこれまでのパラダイムの「限界」を意識し始めています。「科学の限界」、「近代合理主義の限界」、「地球資源の限界」、これまでよりも根源的な限界意識のような気がします。しかし、車も欲しがらず、住まいも他者と分かち合う、若い人たちほど日常生活感覚で「限界」に同期した生き方や価値観を無理なく身につけているようにも感じられます。
 
「有限」と「無限」、この哲学的な問題は奥が深そうですが、人間が生きている上での二つの存在の傾向として、「持つこと(to have)」と「あること(to be)」をエイリッヒ・フロムが表していたことを思い出します。そして、フロムの言う「持つことは、何か使えば減るものに基づいているが、あることは実践によって成長する」というのは、私たちがこれからを生きる上での「有限」と「無限」の区別の仕方ではないでしょうか。今までの産業社会の中では、持つこともあることも両者ともに「無限」であり、私たちが生きていく上で区別の必要無かったけれど、いよいよ両者の区別が必要な時期が来たということではないでしょうか。
 
 サルトルも、「持つこと」は人間の経験の三つの基本的な形の一つであり、その他に「行動すること」と「自分であること」があると記しています。「持つこと」抜きに、私たちは十分な満足や幸せを得にくいのは事実でしょう。しかし、それが有限であることが明らかになり、「行動すること」や「自分であること」には限界の無い成長の可能性があるだとすれば、大きな生き方の転換を早めにした方が、未来への適応力となるはずです。若い世代の連中は、「既に持ってしまった」我々昭和世代よりも、自然にそういう流儀を身に着けているようにも見えてきます。
 
 限界と言えば、先日『限界集落株式会社』というエンタメ小説を読みました。今、日本のほとんどの中山間地は「持っていたけど失ってしまった」状態にあるわけです。そんな中に、右肩上がりの数字を追い続け「持つこと」に邁進してきた六本木の超高級マンション住まいのビジネスマンが、ふらりと限界集落の農村の空き家で過ごし始めてから、「行動すること」や「自分であること」に向かっていく人間ドラマです。「こんなのフィクションさ」という思いを持ちつつ読んでいましたが、最後の方は「そうだよな、こうでなきゃ!」と主人公に自分を重ねたくなってしまいました。
 
 フロムは65年前に今を予見していたのかもしれません。彼は、「商業主義によって動かされる文化では、"持つ"傾向が育まれる運命であり、結果として空っぽで満たされない社会が生まれる。一方、"ある"傾向の人は、所有することよりも経験を重んじ、他の人々と物事を共有したり協調して行ったりすることから人生の意味を見出す」と主張していました。限界に気づいた私たちは、資源も心も空っぽにしてはなりません。新しい満たされた社会の兆しは、既に「持ってしまった」人々や場からよりも、未だ「持っていない」あるいは「失ってしまった」人々や場から生まれるように思えます。そんな胎動を感じ取り、孵化を支えるのも、大転換時代の未来研究のあり方のひとつではないかと思っています。
 ※記事は執筆者の個人的見解であり、HRIの公式見解を示すものではありません。
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