COLUMN

2012.08.15内藤 真紀

立体視と複眼視

先日閉幕したロンドンオリンピックは、参加国・地域すべてが女子選手の派遣を認めた初めての大会であり、全競技で男女両方の種目が実施された初めての大会でもあったという。これを聞いたときには、「女子選手の派遣を禁じていたところがあったのか」と驚きを感じつつ、「とうとうシンクロや新体操にも男子が!」と、男女平等思想の浸透と発展に嘆息したものだ。もちろん、「競技」というカテゴリーではシンクロは「水泳」、新体操は「体操」に分類されるため、これらの種目で男子選手の演技を観戦する機会はなかったのだが。
 
女子選手の派遣を認めていなかったのは宗教上の理由からだそうだが、宗教をはじめとする文化慣習や歴史的な背景などにより、同じ人間であっても排除されたり尊重されなかったりする層が存在することがある。女性、子ども、高齢者、特定の人種・民族、病気や障害のある人などなど。周囲を見渡しても、たとえば就労環境は男性(=家長)をメインストリームとし1日8時間労働のシステムが長らく主流となってきたし、道路は自動車(運転者)の立場で整備されてきた。その半面で、パートタイムの労働者は「非正規」と呼ばれ、自転車利用者は道路や歩道を走り両方で邪魔者扱いされている。意図的ではなくてもある特定の層を中心に据えて構築された社会システムは、その他の層にとっては暮らしにくいものとなる。
 
この春疲労骨折というものを体験し、しばらく片足を固定して歩くことを強いられた。なかでもたいへんだったのは、電車を利用するのに地下に下りたり高架ホームに上ったりという上下移動だ。経験者の方はおわかりと思うが、とくに階段の下りは重労働。下るべき階段を見るたびに決死の覚悟が必要だった。もちろん、そこは天下のJRと営団地下鉄、エレベーターもあればエスカレーターもある。ただし遠回りしなければならない場所にあったり、エスカレーターは上り専用だったり、残念なことも多かった。
この経験で、それまでまったく気にならずにいた通勤経路が、歩行が困難な人にとっては非常に苦労を伴うことを身をもって知ることとなった。不思議なことに、そのような状態になってみると、杖を使っていたりギプスをしている通勤者が目に留まるようになり、その数が思いのほか多いことも私にとっては新鮮な驚きだった。
 
自分がメインストリームの一員になってしまうと、それ以外の人の存在を気にかけなくなってしまう。周縁部に位置させられる人たちは、いないのではなく自分からは見えていないだけ。そして人知れず我慢や苦労をしているのだ。
左目と右目で別のものを見ることで立体視ができるように、片目を周縁部にフォーカスしておくと、人間というものをより深く捉えることができるのではないだろうか。また、多様な立場の人がそれぞれの視点で意見を交換しあうのも、人間を深く見つめる方策となろう。前回のコラムで触れられていた「見過ごされてきたニーズ」も、こうした立体視や複眼視によって浮かび上がってくるかもしれない。
 
※記事は執筆者の個人的見解であり、HRIの公式見解を示すものではありません。
 
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