COLUMN

2004.09.01中間 真一

志・能・工・商-忍び寄る、新・身分階級-

 日本の近未来を展望して見えてくるのは、歳出が増える要因と、歳入が減る要因ばかり。厚生労働省によると、職に就かず、働く意欲がない若者は93年の40万人から、03年には64万人に急増中という。なんとか、若者たちをその気にさせるべく、ジョブ・カフェ、ジョブ・パークなど、さまざまな工夫がなされた施策が展開され始めている。2005年から実施される「若者自立塾」もそのひとつだ。3ヶ月の合宿を通して、規則正しい生活習慣と職業体験を通じ、職業への意識を高めようとするものらしい。しかし、問題は、若者たちに職業の体験や知識を与え、職業人としての規則正しい生活リズムを体得させることで解決するものだったのであろうか。彼らは、わたしたちの10代、20代の頃に較べて、アルバイトや就職情報等を通じ、はるかに多くの職業体験や職業知識を持っている。

 若者たちを対象としたリサーチプロジェクト以来、彼らが「自分らしさ」を活かす仕事という職業選択の基準を、とても気にしている点にひっかかっていた。彼らは、「自分らしさ」という選択基準から逃れられず、怯えているかのように見えた。「自分」という形状とぴったりと合う入口を用意している就職先を探すのに必死な様子は、ちょうど、穴の形にぴたりと合った積木だけが、ボックスの中に入る、赤ちゃん用の積木玩具かのようだ。

 しかし、たとえ自分の適性や志の形の穴が見つかったとしても、同じ形をした他者もいる。そこには現実社会の競争が生ずる。自ずと、自分にぴったりの穴に入ろうとする努力を、早々に諦めてしまうものも出てくる。その諦めに彼らが使っていた言葉が、何度も彼らの口から出てきていた「分相応」というものだった。

 彼らの世代は、「自分らしさ」を大きな価値だと強く教えられてきたようだ。そして、自分の理想としての生き方を、仕事生活にも想い描き、最適な仕事場を探す。だから、マジメに生きているほどに、それに対して妥協はしにくい。しかし、自分の能力、学歴などから、就きたい仕事への到達可能性も計算できてしまうのが現実社会だ。現実としての可能性と、理想としての最適性。この間で、翻弄されるのを避けるかのように、仕事を選択する上での新たな「身分階級」のような意識を芽生えさせ、それによって自分を諭しているように感じられた。それは、上の身分から順に、

「志」(自分の志そのままを実現するための仕事に就ける人)
「能」(自分の専門能力で、自分らしさを確保して仕事に就ける人)
「工」(自分の基礎知識を組織で活かしモノ・コトづくりに関わる人)
「商」(マニュアルやシステムに基づき、サービスや営業・販売に携わる人)

 かなり印象的ではあるが、これら4つの「志・能・工・商」の身分序列が、彼らの発言から浮き上がってきた。中でも、「志・能」と「工・商」の境界は、もともと序列の境界ではないはずなのに、若者たちにとって大きな身分差として意識されている。そして、自らの「分相応」の生き方を決めている。

わたしは、「自分らしさ」や「かけがえのなさ」にこだわり過ぎる、現在の仕事選びに疑問を感じる。偶然の中から、自分らしさを発見できる余地は、仕事の場においても多分にある。とにかく、若者たちの「志」に応え、裏切らない仕事場づくりは重要だ。しかし、それを特権的身分にしてはならない。そもそも、これら4つは序列で表されることではないはずだから。
(中間 真一)
PAGE TOP