COLUMN

2014.03.01澤田 美奈子

皮膚と音楽

  オリンピックは、テレビで見ていても心が震えたり泣けたりするのだから、生で観るととてつもなく心を動かされる何かが伝わってくるに違いない。野球やマラソンや大相撲なども普段さほど熱心に中継番組を見ている訳ではないが、生の観戦に参加すると、場の圧倒的なエネルギーの渦に巻き込まれ一緒になって歓声を送ってしまう。
 
テレビ会議からSNS、オンラインゲーム、MOOCsに至るまで「遠隔の作業や体験を実現する技術」は、それまでの経験の中にあった大事な要素を失わせることにつながるのではないかという懸念の声は数多いが、一方で、「技術が進むからこそ、『生』の経験は存続し、さらにその価値が高まる」という未来予測も実はかなり多く目にする。
たとえばいま手元にある『2000年から3000年まで-31世紀からふり返る未来の歴史』というタイトルの、1987年に発刊された一昔前の未来シナリオは、「本や画像を映し出し、文字の大小を自在に操れる、軽量なハンドヘルドスクリーンの登場」や「電子的な貨幣システムが突如として途絶する」といった今まさに私たちが直面しているような新技術の到来とリスクのシナリオを適確に描きつつ、22世紀の社会においてもなお「多くの人々はスポーツや芸術、競争ゲームを『生の』形で楽しむことを望み、見るための施設はよく整備されている」と断言する。現時点ではこの予測は当たっていると言って良いだろう。
 
個人的には音楽はぜひいつまでも生で楽しみたい娯楽である。WOWOW中継やUstreamも良いが、ライブコンサートに勝るものは無い。たとえ東京ドームの4階席の一番後ろであっても、生でその空間に居合わせることでしか味わえない高揚感がある。逆にDVDなどにパッケージされたコンテンツを後から見ると、感動がうまく再生されずに、「あれ?」と感じてしまう場合も結構ある。
そもそも音楽というのは「聞いて」楽しむものであり、身体が歌手や演奏者と同じ空間に居合わせる必要はない。それでも人々はあいもかわらず直接見たがったりプラチナチケットに大枚をはたいたりする。やっぱり生の迫力にかなうものはない、同じ空間に居たということが大事だ、といったありがちな感想の背景を、もう少し科学的な言葉で探ることはできないのだろうか。
 
そんなことを考えていた折にちょうど出会ったのが、『皮膚感覚と人間のこころ』という傳田光洋博士の書籍である。本著においては「皮膚は脳と同じぐらい、人間の認知能力や情報処理能力において大切な役割を負っている」という主張が、数々の最新研究知見に基づいて繰り返し強調される。特に興味深いのは、「人間は耳以外でも音楽を聴いている」という大橋力博士による実験報告だ。大橋博士はガムラン奏者が生演奏をしている際にトランス状態に陥ることの原因として、CDには収録できない耳にも聞こえない高周波音が、人間の脳波やホルモン量に変化を及ぼしていることを明らかにした。さらに被験者の身体の首から下をすべて音を通さない素材で覆った状態でガムランのライブ音源を聞かせると、脳波やホルモン量に及ぼしていた変化が消えてしまったと言う。つまり人間は耳ではなく身体の表面で音楽を受容している、という可能性が示唆されたのだ。
 
この仮説は驚くべきものであるが、考えてみると私たちがごく日常的に経験していることでもある。良いレストランに行くと目でも料理を味わうし、赤ちゃんは手にとったものを片っ端から口に入れたり舐めたりして食べられるものとそうでないものを識別している。特定の「におい」で突然、鮮明な記憶がはるか彼方から呼び起こされることだってある。「聞く」ための専門器官は耳だけではないし、目を使わずに「みる」方法もある。こうした人間の生まれ持ったセンサーの多機能性・多義性が、ハイテク社会においてもなお、ハイタッチという"良い感じ"の経験をますます欲するように私たちを動機づけているのだろう。
 
★  参考文献
傳田光洋(2013)『皮膚感覚と人間のこころ』新潮選書 
 
PAGE TOP