COLUMN

2016.05.01澤田 美奈子

時計仕掛けのアニマル

人工知能だのIoTだのといったコンピューティング・テクノロジーよりもはるか昔から存在し、人間に大きな影響を与えてきた機械は「時計」ではなかろうか。ぜんまい、針、振り子といったきわめてアナログなしかけで、人々の暮らしや社会の動きに規則や秩序を与えることに貢献してきた。
 
時計のよみかたを覚える義務教育が始まった頃から現在に至るまで、時計を見ずに生活したことは1日たりともない気がする。起床、通勤通学、食事、就寝......いつだって時計の示す時刻をたよりにして行動している。そう改めて考えてみると、時計はさりげなく日常に融けこみながら、私たちの行動様式、ひょっとすると思考様式にまでも深く影響を及ぼしてきた、すごい発明品だ。
 
古代にもたとえば日時計などは存在していたが、それはあくまで自然の動きを計り、季節や年月の流れを知るためのものであった。やがて自然現象を利用するよりも安定性の高い機械仕掛けの時計が発明された。機械式時計をはじめに導入したのは中世の修道院だったといわれている。その時計は、規則正しく祈りをささげ、秩序だった集団生活を円滑に送ることを助けた。まもなくこの機械は修道院の外にまで広がり、都市には大きな時計台が建設され、定時に鐘が鳴り響き、人々の生活に新しい規則性をもたらすようになった。
 
 当たり前になりすぎていて今の今まで特に気にも留めなかった「時計」というもののさまざまな影響力を改めて気にするようになったのは、アーミッシュの生活を描いた「Better Off: Flipping the switch on technology」という本を読んだことがきっかけである。
 アーミッシュはプロテスタントの一派で、近代的な機械や自動化技術を排除し、電気や水道などのインフラを持たず暮らしを行っている人々である。本書の著者エリック・ブレンデ氏は、当時MITの修士課程の学生で、「現代の技術なしで生きることはどういうものだろうか?」というテーマ研究のフィールドとして、彼の妻とともに18か月をアーミッシュ社会の中で過ごした。先端技術に囲まれて生活していたギークが、対極的な暮らしの中でどのように変化していったかがリアルに綴られていて読み応えのある一冊である。
 
 ブレンデ氏がアーミッシュ社会での暮らしの中で戸惑ったことのひとつが、アーミッシュの人々が「ゆっくりの時間(slow-time)」と「速い時間(fast-time)」という2種類の時間体系を持っているということであった。
 たとえば協働での農作業や食事会の招待など「時間」を用いた計画を行う際に、その時間が「速い時間」を意味しているのか「ゆっくりの時間」のことなのか、新参者の彼は、その都度確かめる必要があったと言う。「ゆっくりの時間」というのは、夜明け・南中・夕暮れといった「自然な目印(natural marker)」に従った時間のことであり、アーミッシュの人々は基本的にこの「ゆっくりの時間」に合わせて生活を送っている。かたや「速い時間」とは「人間につくられた時間(man-made time)」を意味する。目覚まし時計やラジオ、けたたましくなる電話のベルのように、自然のリズムや人間のペースを無視した、機械式の時間体系だとして、侮蔑を込めて使われている言葉であるらしい。
 アーミッシュ社会は機械化を極力排した独自の文化を保持しているものの、完全に閉ざされたコミュニティというわけではない。病気などの緊急事態に備えて小さなクルマや外界への通信手段としての電話などは、コミュニティに1台は所有しているのが現実である。だからもちろん近代的な「速い時間」の必要性もある程度認めてはいるものと思われる。それでも、人をいたずらに疲弊させ消耗させる機械主導のペースの時間体系をすすんで受け入れてはいないのである。
 
 機械式の時計はもはや人間の集団生活を成り立たせるうえでなくてはならないシステムである。にわとりの声で起床し、空腹を合図にランチに出かけ、冬場は早々に退社する、といった不規則な行動をする人々ばかりでは、現代社会は成り立たない。
 とはいえ、私たちが何の疑問も持たずに従っているこの機械式の時間を、アーミッシュの人々が「人間によってつくられた時間」と皮肉を込めて呼んでいることには考えさせられるものがある。自然の目印に気づかず、アニマルとしての人間のリズムも無視し、機械仕掛けの時計に同調する暮らしに、無理はないか、幸福感はあるのか、と。
 
 

 
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