COLUMN

2007.08.01中間 真一

「待つわ」という生き方〜 待たせない社会は幸せか

 先日、TVからなつかしいメロディーが流れてきました。「わたし、待つわ♪ いつまでも、待つわ♪......」きっと、40代半ばのみなさんは、学生時代に聞き覚えのあるフレーズとメロディー、見覚えのある二人組ではないかと思います。そう、25年前にデビューした女性デュオ"あみん"が活動再開ということで、番組が取り上げていたのです。もちろん、なんとなく耳に入ってくるメロディーの懐かしさもありました。と、同時に「待つわ」というフレーズに「ハッと」思い出したこともあったのでした。

 それは、以前に大阪大学の鷲田清一教授が研究会で話されていた「待たない社会」、「待てない社会」、どうしようもないものや、じっとしているしかないもの、コントローラブルではないものへの感受性が、いつの間にか消失しつつあるというお話でした。ケータイによるコミュニケーションにおいて、待ちぼうけとなることも無くなり、メールを送れば即座に返信が来るのが親しさの証となる。さらに、待つことが無くなるのと関連して、「前のめり」な生き方があたりまえになってきたということも話されていました。プロジェクト、プロフィット、プロスペクト、プログラム、プロダクション、プログレス、プロモーション、仕事の場は「プロ(pro)」すなわち「前に、先に」が付く言葉であふれかえっているというのです。ビジネス世界のあるべき姿勢は、待つことを拒み、消し去る、前傾姿勢あるのみというわけです。なるほど、そのとおり。そして、その勢いは増すばかりですね。

 そして、教育や介護など「人の間のケア」という領域もビジネスのネタとなった今や、人が学んだり、育ったり、癒されたりする場面にも、待つことは「ムダ」であり、計画目標に前のめりになって進むことが要求され、現実化しているようなのです。しかし、そんな勢いが度を過ぎてしまったムリも現れつつあるようです。最近明るみに出た介護ビジネスや英会話レッスンビジネスの事件は、その一端と映ります。

 待つよりも進んだ方がよいという発想の背景には、すべての未来は想定内でコントローラブルで、計画可能であると決めてかかっている態度が見て取れます。しかし、実際には想定外の幸運や不幸、収穫や損失がたくさんあります。それらを全てノイズや災害として排除し続ける生き方が良いのでしょうか。私は貴重なシグナルだと思います。確かに、そういう生き方は苦しみを軽減する生き方かもしれません。待つことは大きな苦しみが伴うこともあるし、待ちに待った挙げ句の果てに大きな落胆の悲しみが待っているかもしれないのですから。しかし一方では、期待を膨らませて待つということもあります。その辛抱の向こう側に、想定をはるかに超える満足という歓びが待っている可能性もあるのです。そんな人生の曲がりくねった凸凹だらけの悪路が、今、どんどん真っ直ぐ安全に舗装された高速道路に整備されているように感じられます。

 新幹線や高速道路で旅行をする時、景色の楽しみがめっきり減ってしまうことを、多くの人が感じているのではないでしょうか。寄り道や回り道の機会も、ハプニングや出会いがめっきり減ってしまうことも。そして、目的地に到着してガイドに掲載されているポイントをムダなくチェックして満足するのが、いい旅だと。しかし、それではもったいない。なんのための旅だろう。なんのための人生だろう。ほどほどの起伏、時には山あり谷あり嵐ありの生き方を経てこそ、おもしろく晴れやかで気持ちいい生き方の感知力が養われるのではないでしょうか。物も情報もたっぷりな中、ムダの無い快適さと便利さがサービスされる現代社会に生きているうちに、私たち人間の内なる生きる力は萎み、ムダ無く生かされ始めているのかもしれません。そんな中から脱出するための一策こそ、「待つわ」という覚悟かもしれないと感じたわけです。そして、今回の選挙の結果も「待つわ」という審判の結果だったのではなかったかと。
(中間 真一)
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